[#表紙(表紙.jpg)] 夢枕 獏 陰陽師 生成《なまな》り姫 目 次  序ノ巻 安倍晴明  巻ノ一 源博雅  巻ノ二 相撲節会  巻ノ三 鬼の笛  巻ノ四 丑の刻参り  巻ノ五 鉄輪  巻ノ六 生成り姫  あとがき [#改ページ]    序ノ巻 安倍晴明     一  陽光の中を、針よりも細い雨が降っている。  細く、そして、柔らかな雨だった。  外を歩いていても、着ているものがいかほども濡れたようには感じないだろう。無数の蜘蛛《くも》の糸が天から降りてくるように、雨は光りながら庭の草や葉の上に注いでいる。  庭にある池の表面にも雨は触れているのだが、ほとんど波紋を生じさせないため、水面だけを眺めていても、そこに雨が落ちているとは見えなかった。  池の縁に植えられた菖蒲《しようぶ》の紫。松の葉や楓《かえで》の葉。柳の葉や花の終わった牡丹《ぼたん》の葉も、雨に濡れて色が鮮やかである。  盛りの過ぎようとしている芍薬《しやくやく》の白い花も、しっとりと花びらに雨を含んで、重そうに頭を垂れている。  水無月《みなつき》の初め──  安倍晴明《あべのせいめい》は、庭を左手に見ながら、円座《わらざ》に座して、広沢の寛朝僧正《かんちようそうじよう》と向き合っていた。  場所は、京の西、広沢にある遍照寺《へんしようじ》の僧坊である。 「空が明るい……」  寛朝僧正が、軒から垂れている柳葉ごしに、空を見やりながら言った。  空といっても、青い天が見えているわけではない。空は、薄い雲に覆われて、全体が一様に、銀色に光っている。陽がどこにあるのかはわからないが、どこからか柔らかな陽光が差し込んでいて、その中を細い雨が降っているのである。 「梅雨もそろそろ終わりでしょうかな」  寛朝僧正が言った。  晴明からの返事を期待して口にした言葉ではない。 「はい……」  晴明は、あるかなしかの笑みを、赤い唇に含みながら、白い狩衣《かりぎぬ》にふうわりとその身を包んで、寛朝僧正の視線を追うともなく、庭へ視線を放っている。 「雨も水、池も水。雨が続けば梅雨と言われ、地に溜《た》まれば池と呼ばれ、その在り方で名づけられ方はそのおりそのおりに変わりますが、変わらないのは水の本然《ほんねん》──」  寛朝僧正が、何ごとか心に感ずるもののあるような声で言った。  寛朝僧正は、晴明に視線をもどした。 「晴明殿、なんだか近ごろは、天地のあたりまえのことばかりに驚かされているのですよ」  広沢の寛朝僧正──宇多天皇の皇子である式部卿宮《しきぶきようのみや》、つまり敦実親王《あつみしんのう》の息子である。母は左大臣|藤原時平《ふじわらのときひら》の女《むすめ》。  若くして出家し、真言僧となった。  天暦《てんりやく》二年(九四八)、仁和寺《にんなじ》において、律師|寛空《かんくう》より金剛界《こんごうかい》、胎蔵界《たいぞうかい》、両部の灌頂《かんじよう》を受けている。  空海の興した真言宗|東密《とうみつ》の正統を継ぐ僧であり、たいへんな怪力の持ち主であったとの逸話も『今昔物語集』などに残っている。 「しかし、今日は、たいへんな重宝を拝見させていただきました」  晴明が、自分と寛朝との間に置かれた三方《さんぼう》に眼を落とした。  その上に、一巻の巻子《かんす》が置かれていた。  その巻子の表に、 |「詠十喩詩《じゆうゆをえいずるし》 沙門遍照金剛《しやもんへんじようこんごう》文」  と書かれている。  遍照金剛とは、弘法大師空海のことである。  喩《ゆ》とはたとえのことであり、つまりこれは、仏法について、空海が喩《たと》えをもって書き著した詩が十篇入っている巻子ということになる。 「御大師様の直筆です。このようなものがたまたま東寺の方から手に入りましたので、晴明殿にはご興味がおありだろうと思い、お声をかけたのですよ」 「これを見ると、言葉が呪《しゆ》であるなら、その言葉を記す書もまた呪であるということがよくわかります」 「あなたの言い方をするなら、雨も泡《うたかた》も、本然は同じ水。見た眼の違いは、ただかけられた呪の違いにすぎぬということですね」 「ええ」  晴明がうなずいた。  今しがた、晴明が眼を通したばかりの巻子の中に、「如泡《によほう》の喩を詠ず」と題された詩が、空海の筆で書かれている。  寛朝は、その詩のことを言っているのである。   如泡の喩を詠ず   天雨|濛濛《もうもう》として天上より来《きた》る   水泡種種にして水中に開く   乍《たちま》ちに生じ乍ちに滅して水を離れず   自に求め他に求むるに自業《じごう》裁す   即心の変化不思議なり   心仏|之《これ》を作《な》す 怪しみ猜《うたが》うこと莫《なか》れ   万法自心にして本《もと》より一体なり   此《こ》の義を知らず 尤《もつと》も哀れむべし  雨は濛々としてけぶりながら天より降り来たり、大小様々な泡が水中に開く。  泡は、たちまちに生じたちまちに消えてゆくが、しかし水は水の本性を離れるわけではない。この水泡は、水自体の本性によるものなのか、あるいは他の原因と条件によるものなのか。さにあらず、これは水自らの本性が条件に従って水泡を結ぶのであり、水自らの作用である。  水が、大小の泡を生じさせるのと同様に、真言行者がその心に生じさせる様々の心の変化や想いもまた不思議であるが、これは、心の中の仏がその変化を生じさせているのである。  泡が、どれほど大小にその在り方を変えようとその本性が水であるように、人の心がどれほど変化しようとも、心の本性である仏は変わることがないのである。  これを怪しみ猜うことなかれ。  全ての存在するものと自らの心とは、もとよりひとつものなのである。  この真理を知らぬということは、まことに哀れなことである。  おおむね、このような意味の詩であろうか。 「この世は、事物の本性たる仏と、そして泡のような呪とによってできあがっていると、そういうことでしょうかな」  謎をかけるように、寛朝が晴明に問うてきた。 「仏という存在もまた、一種の呪ではありませんか?」  晴明が言う。 「なんと、それでは、この世の本然も、人の本性もまた呪であると言っているように聴こえますよ」 「はい。そう言っております」 「これはこれは──」  寛朝は楽しそうに声をあげて笑った。 「本当におもしろいことをおっしゃられますなあ、晴明殿」  寛朝が膝を叩いた時、どこからか人のざわめく声が響いてきた。 「成村《なりむら》ぞ」 「恒世《つねよ》ぞ」  ざわめきに混じって、そういう声も届いてくる。  しばらく前から、何人かの人間たちが、向こうの方であれこれ言葉を交わしている声は聴こえていたのだが、話がだんだんと激してきて、声が大きくなってきたものらしい。 「あれは?」  晴明が問うた。 「文月《ふづき》七日の相撲《すまいの》節会《せちえ》のことで、公達《きんだち》たちがあれこれと言いあっているのですよ」 「海恒世《あまのつねよ》殿と真髪成村《まかみのなりむら》殿が、堀河院で立ち合われることになったと聴いておりますが」 「そのことですよ。はたしてどちらが勝つことになるものやらと、わざわざこのわたしのところまでそれを聴きに来た方々です」 「で、どちらが勝つとおっしゃられたのですか」 「まだ、どういう話も、していないのです。あの者たちが勝手に騒いでいるだけなのですよ」 「わたしがお邪魔をいたしましたか」 「とんでもない。晴明殿はわたしが声をかけてここへお呼びしたのです。公達たちは、勝手にここへ集まってきただけなのです」 「勝手に?」 「どうも、このわたしが相撲《すまい》のことについてはひと言あるべき人間であると、皆が勘違いしているようなのですよ」 「しかし、寛朝殿の怪力のことは、わたしもうかがっていますよ」 「力が強いとはいっても、相撲は力だけで勝てるものではありません」 「ですから、公達たちは、寛朝殿がそのようなことを言われるのを聴きたいわけなのでしょう」  晴明は微笑した。 「しかし、困りました。どうも、仁和寺でのことが、大袈裟に伝わっているようで……」  寛朝は頭に右手をあてて、つるりとそこを撫《な》でた。 「その話ならば、わたしも耳にしています。盗人を屋根まで蹴《け》り飛ばされたそうですね」 「晴明殿、あなたまであんな話をおもしろがっているのですか」 「はい」  澄ました顔で、晴明はうなずいた。  寛朝の言う、 �仁和寺でのこと�  については、『今昔物語集』にも書かれている。  おおよそ次のようなことだ。  広沢の寛朝僧正は、広沢の遍照寺にその身を置いていたが、仁和寺の別当も兼ねていた。  その年の春に、仁和寺に落雷があって、本堂の一部が壊れてしまった。それを修理するため、本堂の外側に足場が組まれ、大勢の工《たくみ》たちが毎日やってきてはそこで仕事をしてゆく。  半月ばかり前──  修理も進んだその日の夕暮れに、工事があとどれほどで終わるのかを見てこようと思いたち、寛朝僧正は衣に腰帯をして、高足駄を履き、ただ独《ひと》り杖を突いて仁和寺まで出かけて行った。  組まれた足場の中に入り、あたりを見回していると、どこからか怪しげな男が姿を現して僧正の前にうずくまった。  黒装束で烏帽子《えぼし》を目深にかぶっていた。すでに夕刻であり、闇の中で貌立《かおだ》ちも定かではない。  よく見れば、男はいつの間にか刀を抜いており、これを右手で逆手に握り、背後に隠すようにして持っている。  しかし、寛朝少しも慌てることなく、 「何者か」  静かな声で誰何《すいか》した。 「落ちぶれ果て、喰うものとてままならぬこの身の上だ。今さら人に名のる名などはない」  黒装束の男は、低い声でそう言った。 「何の用だ」 「おまえが身につけているその着物を、ひとつふたつ、もらおうと思って出てきたのだ」  それを聴いて、 「なあんだ、盗人《ぬすびと》か」  寛朝は怯《おび》えも見せず、ほがらかな声で言った。  隙を見て斬りつけようとしていた盗人は、それで思わずとびかかりそこねてしまった。  相手が怯えるか、あるいは強気に出てかかってくるかすれば、それに合わせて斬りかかることもできるのだが、寛朝があまりにもゆったりと構えていたため、盗人はその気をそがれてしまったのである。  それでも、心をとりなおして盗人は刀を構え、 「生命が惜しくば、着ているものを脱いでこれへ置いてゆけ」  切先を寛朝僧正につきつけた。 「おれは、坊主だぞ。着物くらいくれてやるのはいつでもかまわぬのだ。だから、好きな時におれのところへやってきて、ひもじくて銭もない故、どうぞそれをいただけませぬかと言えばよいのだ。なのに、そのように抜き身の刃物をつきつけてくるというのが気にいらんなあ」 「うるさい、黙れ」  と盗人が斬りつけてくるのをかわし、僧正はその背後にまわって、 �盗人の尻をふたと蹴《けり》たりければ�  盗人の尻のあたりをひょいと蹴りあげると、蹴られた盗人は、 「わっ」  と声をあげてあちらへ飛んでゆき、その姿が見えなくなってしまった。 「はて──」  寛朝は盗人の姿を捜したのだが見あたらない。  ならば他の者に捜させようと考えて、僧坊まで歩いてゆくと声をかけた。 「誰《たれ》ぞおらぬか」  すると、僧坊から何人かの法師が走り出てきた。 「これは寛朝僧正さま、かような刻限に、何故こちらまで──」 「修理の進みぐあいを見に来たのだ」 「それにしては大きな声でお呼びになりましたが、どうかなさったのですか」 「今しがた、わたしの着ているものを盗もうとした盗人に会うたのだが、そやつめ、刀を持ってこのわたしに斬りつけてきたのだ」 「お怪我は?」 「ない。それよりも灯りを持ってきなさい。盗人が斬りかかってきたので、それをかわして尻を蹴ってやったのだが、その途端に姿が見えなくなってしまった。どこにいるか捜してまいれ」 「寛朝僧正様が追い剥《は》ぎにあわれたぞ。灯りを持て──」  法師のひとりが叫べば、何人かの法師が松明《たいまつ》を用意してきて、その灯りをたよりに盗人の姿を捜しはじめた。  法師たちが、灯りをかかげて足場の間を捜していると、上の方から、 「痛や、痛や……」  という声が聴こえてきた。  灯りを向ければ、足場の上の方に、ひとりの黒装束の男がはさまって呻《うめ》いている。  さっそく上に登ってみれば、寛朝の大力に蹴り飛ばされた件《くだん》の盗人は、まだ刀を手に持って、哀しげな顔で法師たちを見ていた。  寛朝は、その盗人を連れて僧坊にもどり、 「よいか、今後は二度とかようなまねをしてはならぬぞ」  着ているものを脱いで盗人に与え、そのまま放してやった。  さすがは広沢の寛朝僧正様、力が強いばかりでなく、自分を襲った盗人にまで施しをする──  法師たちはしきりに感心しあったということであった。  これが話のあらましである。 「噂は尾ひれがつくものです。実のところは、わたしに蹴られた盗人が逃げ出して足場の上に登り、足を踏みはずして動けなくなったというところなのですよ」  寛朝僧正は晴明に向かって言った。 「よいではありませんか。わざわざ僧正自ら皆に事の次第を告げるほどのことでもないでしょう。こういった話が生ずるのも寛朝殿の徳のなせる業《わざ》であって、空海和尚の泡の喩えではありませんが、噂によって僧正御自身の本性が、いささかも変わるものではありません」 「はい」  寛朝僧正が苦笑しながらうなずき、 「害のない噂ですから、そういうことにしておきましょうか」  そう言った時、向こうの僧坊でのざわめきが大きくなってきた。  どうやら、公達たちが、濡れ縁を渡ってこちらへ向かって歩いてくるところらしい。 「わたしが、寛朝殿を長い間独り占めにしているので、痺れを切らせたのでしょう」  晴明がそう言っているところへ、件の公達たちがやってきて、 「おう、やはり安倍晴明殿でおじゃるぞ」  その中のひとりが嬉しそうに言った。 「晴明殿じゃ」 「これはお珍しい」  若い公達たちが、濡れ縁でそのような言葉を交わしながら、好奇の視線を晴明に向けている。 「おやおや、彼らのおめあてはわたしではなく、晴明殿、あなただったようですよ」  寛朝僧正は、晴明に向かって嬉しそうにつぶやいてみせ、公達たちに向きなおった。 「晴明殿は、わたしがお呼びしたお客人ですよ。こうしてふたりで話をしているところへやってきて、そのもの言いは、いささかぶしつけではありませんか」  僧正が言えば、 「いや、失礼をいたしました。晴明殿をお見かけするのはいつも儀式の最中で、こうしてお近くでお目にかかる機会など、めったにないものですから──」  公達たちは恐縮して頭を下げたのだが、彼らの眼から好奇の色が消えたわけではない。  公達たちの中には、それまで彼らの相手をしていた若い僧も混じっている。 「あちらで、このたび決まった海恒世と真髪成村の取り組みについて話をしていたところ、安倍晴明様がただいまおいでになっていると言うものがありまして──」  若い僧のひとりが言えば、 「これはぜひとも方術の話などうかがいたいと思いまして、御無礼を承知でこちらまでうかがったのです」  また別の公達が言った。 「なんでしょう」  晴明がそう言ったのをいいことに、公達たちがさざめくように口を開きはじめた。 「いや、晴明殿には、様々なる方術を使われると耳にしております」 「式神《しきがみ》というのをお使いになるとのことですが、たとえばそれで、人などを殺《あや》めたりもできるのでしょう」  問われて晴明は、 「陰陽の道の秘事について、突然の御質問ですね」  その若い公達に向かって言った。  晴明の、女のような赤い唇に、ほんのりと微《かす》かな笑みが点《とも》っている。  晴明の唇には、常にそのような微笑が含まれているのだが、見ようによっては、その笑みが公達たちのぶしつけな問いを非難しているようにも見える。  しかし、もの怖《お》じしない公達たちは、 「いかがですか」  さらに晴明に問いかけてきた。 「できるかできないかということであれば──」  晴明は、問うてきた公達を、切れ長の涼しげな眼で見やりながら、 「どなたかでお試しいたしますか」  優しい声で言った。 「いやいや、試せということではございません」  晴明に見つめられた公達は、慌ててそう言った。 「御心配なさらずに。そう簡単には、人を呪で殺めることなどできるものではありませんよ」 「簡単ではないが、できるということですか」 「色々と方法はあるということです」 「では、それを、人ではなく別のもので試すというのはいかがですか」  それまで黙っていた公達のひとりが言うと、 「おう、それはおもしろい」  公達たちの間に、うなずく声があがった。 「では、あれなる池の石の上に、一匹の亀がおりますが、あれなる亀を方術で殺せますかな」 �別のもので�と提案した公達が言った。  一同が庭の池を見やれば、池の中央あたりに石が顔を出していて、その上に一匹の亀が休んでいる。  いつの間にか雨は止んでいて、庭には薄日が差していた。 「あそこの芍薬の下にも、蝦蟆《かえる》が一匹おりまするがあれでもよろしゅうござりますぞ」 「蟲《むし》や亀なら人ではない故、よろしいのではありませんか」 「なるほど」  おもしろがって、公達たちが、口々に晴明をそそのかそうとする。 「なかなか物騒な話を、寺の中でなさるのですね」  晴明は表情を変えずに言った。  そのまま、寛朝僧正に視線を向ければ、僧正は笑みを浮かべて、 「さて、なんといたしましょうかなあ、晴明殿」  他人事《ひとごと》のような口調でいった。  寛朝自身も何年か前には、宮廷の若い女房に憑《つ》いた天狗を落としている。  しかし、みだりに方術など見せるものではないということは、もちろん寛朝自身も理解している。  かといって、このまま何もせずにおけば、 �いや、安倍晴明というてもたいしたことはない� �何かやってみせろと言われて、何もできずに帰っていってしまったではないか� �あの男も噂ほどではないな�  公達たちが、宮中でこの日のことをそのように言いふらすであろうことも、同様にわかっている。  しかし、そそのかされてのこととはいえ、寺での殺生《せつしよう》は、相手が蟲であろうと亀であろうと、これまたむやみに行っていいものでもない。  晴明が、これにどう結着をつけるのか、寛朝自身は高みの見物をきめ込むつもりらしい。 「よいではありませんか」  寛朝僧正は、しばらく前に晴明の言った言葉を真似てみせた。 「所詮は座興。泡のこと。何をやってみせようと、また、みせなかろうと、晴明殿の本性が、いささかも変わるものではありませんよ」  楽しそうに寛朝僧正は晴明と公達たちを眺めている。 「寛朝僧正殿、見ればあの亀も蝦蟆も、かなりの歳経たものと思われますが、彼らは毎日ここで、寛朝殿の読経の声を聴いていたわけですね」  晴明は言った。 「はい」 「そうですか」  晴明は、身体の重さがないもののように、ふわりと立ちあがった。 「どのような生き物でも、殺すことはたやすいのですが、生きかえらせるというのが、なかなかできることではないのです。無益な殺生は罪になるので避けたいのですが、いたしかたありません」  晴明は、濡れ縁まで歩いてゆくと、軒から垂れている柳の枝から、すんなりと伸びた右手の人差し指と親指で、一枚の柳の葉をつまみとった。 「方術を使えば、こんなに柔らかな柳の葉一枚を乗せるだけで、あなたの掌を潰《つぶ》すこともできるのですよ」  池の亀を殺してみせよと言った男を見つめ、晴明は白い歯を見せた。  公達たちも、僧たちも、今は濡れ縁に集まって、晴明のどのような言葉も聴き逃すまいと、身を乗り出している。  晴明は、指先につまんだ柔らかな緑の柳葉を、赤い唇に触れそうなところまで近づけると、小さな声で何やら呪を唱えた。  指を開くと、その柳の葉は、晴明の指先を離れ、風もないのにひらひらと宙を舞った。  次に晴明は、またもう一枚の柳葉をつまみ取ると、これに唇を近づけて同じようにまた小さく呪を唱えた。指先を離せば、この葉もまた先の葉を追うように、ひらひらと宙に舞ってゆく。  見ているうちに、最初の一枚はもう亀の上までやってきて、その背へと舞い降りてゆく。柳葉が亀の甲へ舞い落ちたかと見えた時──  めかっ、  と音をたてて、大きな岩にでも押し潰されたように、亀の甲羅は罅《ひび》割れていた。 「おう」 「なんと」  一同が声をあげているところへ、もう一枚の柳葉が、こんどは蝦蟆の背へ舞い降りた。  その途端、蝦蟆は柳葉に押し潰されてぺしゃんこになり、はらわたをあたりへ飛び散らせた。  散ったはらわたのふたつみっつが、濡れ縁から身を乗り出して眺めていた公達たちの顔まで飛んできて、そこにへばりついた。 「わっ」  声をあげて、公達たちは腰を引き、後ろへ跳びすさった。  公達たちは、称讃と怯えの表情を交互に貌の面《おもて》に現しながら、 「いやいや、なんとも」 「凄まじき方術でござりまするな」  そう言った。  彼らのさざめきが止むのを待って、晴明は澄ました顔で口を開いた。 「蝦蟆も亀も、毎日寛朝僧正の読経を聴いていたとのこと。あるいは霊力を得て人語を解するやもしれません」  晴明がいったい何を言い出したのかと、不安な表情が一同の顔に浮かぶのを待ってから、この高名な陰陽師《おんみようじ》は、嚇《おど》すように公達たちに言った。 「となれば、いずれの夜にか、死んだ亀か蝦蟆が皆様のうちのどなたかに仇《あだ》をなすこともありえましょう」  公達たちの顔に浮いていた不安が、怯えの色になった。 「あの亀や蝦蟆が、我らに祟《たた》ると言われるのですか」 「まさか、そのようなことが……」  顔色が悪い。 「あると言ったのではありません。ありえましょうと言ったのです」 「そうなったらどういたしましょう」 「寛朝僧正殿の読経を耳にして、霊力を得たものでしょうから、寛朝さまに御相談されれば、よろしきにはからってくれましょう」  晴明の言葉を聴いて、公達たちはすがるように寛朝僧正を見た。 「いや、もしものおりはお助け下さいまし」 「なにとぞ」  これには寛朝僧正も苦笑して、 「わかり申した。御安心下され」  そう言う他はない。  若い僧や公達たちが姿を消し、静かになったところで、 「では、寛朝僧正殿、これにて失礼いたします」  晴明が頭を下げた。 「いやいや、とんだ座興におつきあいさせてしまいましたなあ」 「失礼する前に、ひとつ、お願いがございます」 「何でしょう?」 「お庭の亀と蝦蟆ですが、仇をなさぬように我が屋敷内で供養いたしたいと思うているのですが、お寺の気の利いたものに言って、あれの屍骸を後ほどわたしの屋敷まで持たせてやってはいただけませんか──」 「ははあ、なるほど、そういうことでございましたか」  何やら理解したように、僧正はうなずいた。 「おやすいこと。あれを持たせて、誰ぞをお屋敷までやらせましょう」 「それでは──」  白い狩衣を揺らしながら、晴明は濡れ縁を歩き出した。  別棟《べつむね》に退っていた若い僧や公達たちが、晴明の帰る姿に気がついた。 「何とぞよろしくお願い申します」 「晴明殿」  公達たちの声が、晴明の背へふりかかるが、もう、晴明は後ろを見やりもしない。  ようやく顔を出した陽光が、晴明の背に明るく差している。     二  さて、ここであらためて安倍晴明という人物について話をしておきたい。  安倍晴明──  平安時代の陰陽師である。  では、陰陽師とは何か。  平安時代の魔術師?  重なる部分がないわけではないが、これでは少し遠い。  呪術師《じゆじゆつし》──  これでもまだ距離がある。  では、方士という言い方はどうか。  方士──つまり、さまざまの不思議の技、方術を使う人。方術師。  語の雰囲気としては近くなるが、まだ充分ではない。確かに陰陽師は方術を使うが、それは、あくまでも陰陽師という存在の持つ特徴のひとつであり、それが全てというわけではない。  方士では、まだ中国的な香りが残りすぎている。  陰陽師というのは、中国に生まれた陰陽道の思想をその背景に持ちながら、我が国独自の呼称であり、陰陽師という存在は中国にはないのである。  陰陽師というのは、一種の技術職である。  先に書いた呪術師という名前が、その能力に対して与えられる呼称であるなら、陰陽師というのは、基本的には職業に対して与えられる呼称なのである。  このあたりの微妙な差を説明するのに、現代風な表現で思いあたるものを捜せば、わかりやすいところで、プロフェッショナルという言葉がある。  これをつけてみたらどうか。 �プロの呪術師�  職業呪術師──かなり近い。  近いが、しかし、まだどこかはずしているような気がする。  たとえば�陰陽師�という器に、�プロの方術師�という器に入った酒を注ぎ入れてゆき、全て注ぎ終えたとしても、�陰陽師�という器には、まだ満たされない空白が、どうしても残ってしまうような気がするのである。  しかし、これは平安時代におけるこの特殊な職能者のことを、別の言葉に置き換えようという試みの方に無理があるのだろう。  この陰陽師、朝廷に仕えて、様々な占いや、医者のようなことまでやった。  この当時、病の多くは、鬼やもののけや呪いが原因であると信じられており、陰陽師は、病人に憑いた悪霊やもののけを落としたり祓《はら》ったりすることによって、病を治したりしていたのである。  陰陽師はそういう方面の専門家であった。天文を観《み》、方位を観る。  星で吉凶を占ったり、貴族たちがどこかへ出かけることになれば、その方角の良し悪しも観たりする。たとえば出かけてゆく方角に障《さわ》りがあれば、いったん別の方角へ出向いて一泊し、翌日あらためて目的の場所へ出かけてゆくという方違《かたたがえ》の方法などについても詳しかった。  この方違、天一神《なかがみ》のいる方角を避けるために行うのだが、この神が度《たび》たび、その居る場所を変えるのである。だから、出かけるおりには、まず天一神がその日どこにいるかを調べねばならない。調べるといっても、この天一神の動きがたいへんに複雑で、素人に簡単にわかるようなものではない。  そこで、この道の達人である陰陽師が必要となってくるのである。人を呪ったり、呪われたりということが、日常的にあった時代であり、この呪いから貴族が身を守るためにも、陰陽師という存在はなくてはならないものであった。  平安時代、大内裏《だいだいり》には陰陽寮というものが設けられていた。養老令の注釈書『令義解《りようのぎげ》』によれば、人員構成は、次のようなものであった。  頭《かみ》一人。  助《すけ》一人。  允《じよう》一人。  大属《だいさかん》一人。  小属一人。  陰陽師六人。  陰陽博士一人。  陰陽|生《しよう》十人。  暦《れき》博士一人。  暦生十人。  天文博士一人。  天文生十人。  漏剋《ろうこく》博士二人。  守辰丁《しゆしんちよう》二十人。  使部《しぶ》二十人。  直丁《じきちよう》二人。  計八十八人。  仕事内容は、次の四分野に分けられる。  陰陽道。  暦道。  天文道。  漏剋。  陰陽道は、土地の吉凶を判断する相地《そうち》や、占筮《せんぜい》がその主な仕事であった。  暦道は、暦を作成し、日がらの吉凶等を決めるのが仕事である。  天文道は、月や星、惑星などの動きを観測して、それによって物事の吉凶を占ったり、彗星などが現れればその意味を考えたりする。  漏剋は、時刻の管理をつかさどるのが仕事である。  現代風の感覚から見れば、平安時代の科学技術庁という見方もできる。当時の最新テクノロジーを握っていた場所であり、平安時代の精神を支える大きな要《かなめ》であった。  安倍晴明は、天文博士を務めている。  天文博士の官位は正七位下《しようしちいのげ》とまだ低い。陰陽寮の長官とでもいうべき頭の位が従五位下で、ここからようやく殿上人《てんじようびと》となる。  安倍晴明が、陰陽頭になったという資料はないが、官位は頭のそれを越えて、従四位下《じゆしいのげ》にまでなっている。  安倍晴明──  延喜二十一年(九二一)の生まれとされているが、これは、寛弘二年(一〇〇五)に八十五歳で晴明が死んだとされている資料から逆算したものである。  大膳大夫《だいぜんだいぶ》・安倍益材《あべのますき》の子で、大日本史料所引『讃岐国大日記』や『讃陽簪筆録《さんようしんぴつろく》』によれば、四国は讃岐国|香東《こうとう》郡井原庄に生まれている。幼少時から青年期にかけての正式な記録は一切なく、これをさぐろうとすれば、説話や伝説に残る神憑《かみがか》った話をその標《しるべ》とする以外にない。  そういった、夥《おびただ》しい量の安倍晴明物語群とでも呼ぶべき資料を元にすると、晴明の生きた時代の幅はたちまち百年くらい広がり、先祖は唐に渡って彼の地で果てた安倍仲麻呂《あべのなかまろ》であるということになっていたり、父は安倍益材ではなく、安倍保名《あべのやすな》であるということになっていたりする。  母は信田《しのだ》の森に棲《す》む狐であり、『臥雲日件録《がうんにつけんろく》』などによれば、晴明自身もまた、 �化生ノ者�  であったという。  説話が伝説になり、その伝説から物語が生まれ、それが「謡曲」になり、『蘆屋道満《あしやどうまん》大内鑑《おおうちかがみ》』という浄瑠璃にもなったりしている。  いったいどの辺《あたり》に安倍晴明という人物の実体があるのかと考えても、捕らえどころがない。  まことにおもしろい。  ある意味ではこの捕らえどころのなさこそが、平安時代という特異な時代を物語るおり、その中心に置くにふさわしい人物と言えるかもしれない。  平安時代は、雅《みやび》な闇の時代であった。  鬼も、人も、もののけも、同じ闇の中で呼吸している。  建物や辻の暗がりには、鬼やもののけがいるとまだ信じられていた。  平安時代──喩えて言うなら、それは、闇のなかで、ひそかに鈍い光を放つ黄金の色だ。暗い闇のなかで呼吸する、あるかなしかの金色のひかり。それを、鬼も人間ももののけも息をひそめて見つめている……  そういう映像が浮かぶ。  その闇の中から見あげれば、天には冴えざえと青い月が出ている。その月の横に一片の雲が浮いて光っている。  この月。  月の光。  あるいは光る雲。  これが、安倍晴明である。  むろん、これはイメージの話であり、なんらかの根拠があってのものではない。  しかし、安倍晴明という人物について想いを馳《は》せる時、どうしても頭に浮かべてしまうのがこの�絵�なのである。  この絵について物語りたい。  堅い資料によるのでもなく、すでにできあがっている人物像によるのでもなく、玉石入り交じった無数の混沌とした物語によって物語られることこそが、この稀代《きたい》の陰陽師安倍晴明という人物にはふさわしいのではないか。     三 『今昔物語集』によれば、安倍晴明は、若い頃、賀茂忠行《かものただゆき》という陰陽師のもとで修行していたという。  賀茂忠行は、平安時代の高名な陰陽師で、この息子が賀茂保憲《かものやすのり》というこれもまた天下にその名を知られた陰陽師であった。  日本の陰陽道は、やがて安倍晴明の土御門《つちみかど》家、賀茂保憲の賀茂家と、大きなふたつの系統に支配されてゆくことになるのだが、保憲は、その一方の雄である。  晴明と保憲は、賀茂忠行の兄弟弟子ということになるが、別の資料によれば、晴明は保憲の弟子であったことになっており、このあたりのことはさだかではない。  さて──  安倍晴明、賀茂忠行のもとで修行していた頃、どのような少年であったろうか。  想像するに、色白で細面、かなりの美童であったのではないか。  匂い立つような才気が、その身体から溢《あふ》れ出ていた──と書いてしまえば通りはよいのだが、おそらく、若い頃より、その才をうまく隠すことのできる処世の術には長《た》けていたろう。  それでも、時には隠しきれずに、歳のわりには生意気な表情や大人びた口調で、大人たちと話をすることもあったに違いない。  人間の愚鈍さをそのまま受け入れるにはまだ歳が足らず、周囲の頭の悪い大人たちに対して、つい、辛辣な言葉を吐くこともあったろうと思われる。  子供の可愛さよりは、もっと鋭角なものが、幼い晴明の表情や視線の中に含まれていたのではないか。  ある夜──  この若い晴明をともなって、何人かの供の者たちと一緒に、賀茂忠行は下京方面に出かけた。  牛車《ぎつしや》である。  忠行は牛車に乗っているが、他の者たちは晴明も含めて徒歩《かち》である。  深更《しんこう》──  空には歪《いびつ》な月が掛かっており、忠行は牛車の中で眠っている。  ほとほとと牛車は都の大路《おおじ》を進んでゆく。  少年の晴明が、ふと前方に眼をやれば、なにやら妖《あや》しの気配がある。もやもやとした雲気のごときものが先の方にわだかまっており、しかも、それはこちらに近づいてくる様子である。  よく見れば、なんとそれは鬼の集団であった。 �艶《えもいは》ず怖《おそろし》き鬼共《おにども》車の前に向《むかひ》て来けり�  百鬼夜行に出会ってしまったのである。  鬼たちが近づいてくるのが見えているのは晴明ただひとりであり、他の供の者たちはこれに気づいた様子もない。  晴明は慌てて車に駆け寄り、忠行に声をかけた。 「お師匠様、前より鬼たちが近づいてまいります」  これを聴いて、賀茂忠行たちまち眼を覚ました。  車の前簾《まえすだれ》を持ちあげて、その隙間より眺めれば、はたして前方より鬼の群がさざめきながらやって来るのが見える。 「まさしく百鬼夜行なり……」  唸った。  鬼共に見つかれば、ここにいる全員の生命はない。 「車を停めよ」  牛車を停めさせ、忠行は外へ出た。 「鬼が来るぞ」  一同を車の周囲に集め、印《いん》を結び、口の中で呪を唱えて結界を張った。 「生命が惜しくば声をたてるでないぞ。人がいるとわかれば、眼玉も吸われ、血も啜《すす》られ骨も髪も、残らず啖《くら》われてしまうぞ」  鬼こそ見えないが、それでも忠行の弟子たちであるから、師が何を言っているかはすぐに供の者たちも理解した。  前からやってくる黒雲のごとき妖しの気配もわかる。  結界を張り終え、忠行は言った。 「よいか晴明、あるいは鬼の中には鼻の利くものもあろう。もしもの時は、このわしが合図をしたら、この牛を軛《くびき》より解き放て」 「はい」  晴明はうなずいた。  弟子たちは、声もなく、生きた心地もしない。  額に汗をかいていないのは若い晴明だけである。  鬼が近づいてくるのを、晴明は涼しい顔で眺めている。 �ははあ──�  平然と──というより、おそらくは珍しい獣を見物するような好奇の眼で、鬼たちを眺めていたのではないか。 �鬼とはこういうものか�  人のようななりをした鬼もいれば、大入道もいる。首だけが馬の鬼もいれば、髪を振り乱した裸の女としか見えないような鬼もいる。  琵琶《びわ》のかたちをしたもの。  柄杓《ひしやく》の姿をしたもの。  人の首をした犬。  鬼火をからませた車輪。  脚の生えた鍋。  やがて、鬼の群は牛車の前で立ち止まった。 「人の臭いがする……」  丈が十尺余りもありそうな僧形の男が、鼻をくんくんとさせながらつぶやいた。 「たしかにするな」  馬首の鬼が言えば、 「たしかにする」  女の鬼が言う。 「うむ、するな」 「する」 「する」  鬼たちは立ち止まってあたりの臭いを嗅《か》ぎ始めた。  弟子たちには、鬼の姿は見えないが鬼たちの声は聴こえる。顔が真っ青になった。  晴明が忠行の顔をうかがえば、 �今ぞ�  忠行が眼で合図をする。  晴明が、紐《ひも》を解いて、軛に繋がれていた牛を解き放った。 「おう、牛ぞ」 「かようなところに牛がおる」  歩き出した牛に、鬼たちが気がついた。 「うまそうな牛じゃ」 「啖《くろ》うてしまえ」 「啖うてしまえ」  たちまちわらわらと鬼共が牛に取りついて、ひしひしと喰べはじめた。  月光の中で、牛が苦しげに身をよじって鳴くが、弟子たちに見えているのは牛ばかりで鬼の姿は見えない。  ごそりと、牛の首のあたりの肉が消え、大量の血が地に滴るのが見える。  牛の眼玉が吸われて失くなるのが見える。  牛の脇腹の肉が、見えない顎に齧《かじ》り取られ、肋骨《あばら》が覗く。  ぞぶり、  ぞぶり、  と、血と肉の啜られる音が響く。  がつん、  ごつん、  と、牛の骨が噛み砕かれる音が響く。  晴明は、これを凝《じ》っと眺めている。 �なるほど──�  感心したようにうなずいたりもしている。 �鬼が生き物を啖うというのは、あのようなことであるのか�  その落ち着きぶりを見て、忠行もひそかに舌を巻いている。  やがて、鬼たちは、きれいに牛一頭を喰い尽くしてしまった。 「いや、喰うた」 「腹もくちくなったな」 「うむ、なった」 「なった」 「なった」  鬼たちは満足そうにうなずき、また、ぞろぞろと歩きはじめた。 「済んだぞ」  忠行がそう言ったのは、鬼たちの姿が完全に見えなくなってからであった。  こうして、晴明たちは鬼の難を逃れたのであった。  この日より、賀茂忠行は晴明を重く用いるようになり、陰陽の道について、自分の知るところを余すところなく伝えたというのである。 �この道を教ふること瓶《かめ》の水を写すが如し�  と『今昔物語集』は伝えている。  さて、この晴明が成人して住んだ家であるが、土御門大路にあったと言われている。  これは、帝の住む内裏から見て北東の方角である。  北東──つまり艮《うしとら》の方角であり、俗に言うところの鬼門の方角である。  このこと、偶然ではない。  晴明の異能を伝える逸話はまだある。  これは『宇治拾遺物語』の話。  ある時──  用事があって晴明が宮中に参内したおり、蔵人少将《くろうどのしようしよう》に会ったという。この少将が誰であったかを『宇治拾遺物語』は記していない。後に�大納言にまでなり給ひけるとぞ�とあるから、かなりの人物であったに違いない。  少将は、ちょうど車を降り、参内するところであった。  この時、少将の上に一羽の烏《からす》が飛んできて糞をかけていった。  これを見ていた晴明、少将のもとまで歩いてゆき、 「ただ今、少将さまに穢土《えど》(糞)をかけていった烏がございましたが、あれは式神でございます」  そう言った。 「しかも、たいへんに性《たち》の悪いもので、放っておけば、あなたさまの御生命、今夜ひと晩ももちますまい」  少将も、晴明の高名は知っているから嘘や間違いであるとも思えない。 「どうかお助け下さいまし」 「ちょうどわたしがここへ来かかったのも宿縁。これから間に合うかどうかはわかりませんが、試してみましょう」  晴明は少将の車に乗って屋敷まで一緒についていった。  夕刻になると、晴明は少将と共に一室にこもり、両の袖で覆うようにして少将の身体に腕を回した。 �晴明、少将をつと抱《いだ》きて身固めをし、また何事か、つぶつぶと夜一夜《よひとよ》いもねず、声絶《こゑだえ》もせず、読み聞かせ加持《かぢ》せり�  身固めの護身の法をして、眠ることなくひと晩中加持|祈祷《きとう》をした。  と──  明け方近くなって、とんとん、と戸を叩くものがいる。 「来たか」  晴明はつぶやき、 「入りなさい」  静かに戸を叩くものに声をかけた。  しばらくして、少将が気がつくと、部屋の隅の暗がりに、ぼうっと座すものがあった。  戸の開いた気配もないのに、いつ入ってきたのか。  見れば、烏のように口の尖《とが》った猫ほどの大きさの小坊主である。しかもひとつ目であった。 「なるほど、かような次第であったか……」  小坊主は、晴明と少将をしげしげと見つめ、そうつぶやいた。 「この屋の主《あるじ》を呪い殺さんと、式神を送りたれども験《しるし》なく、守り強ければ何事かと思い、ここまで様子を見にやってきたれば、なんと、それにおわすは安倍晴明殿……」  小坊主は、自ら納得したように深ぶかとうなずき、 「これはとてもかないませぬわなあ」  消えた。  夜が明けてから、少将があちらこちらへ使いの者をやって調べさせたところ、事の次第が判明した。  この少将には、相婿《あいむこ》がいた。  少将の妻の妹の夫で、蔵人の五位の男である。  周囲の者たちが、少将ばかりを大切にして、この蔵人の五位の男をないがしろに扱うので、この男は前々から少将のことが気に入らなかったというのである。  ついに陰陽師を頼んで、少将を呪い殺そうと企てたのだが、これがたまたま晴明の知るところとなってしまった。少将に向かって打った式神を、晴明によって返されてしまったのである。  呪いを込めて放った式神が返されると、その呪いは全て式神を放った陰陽師の許に返ってくることになる。それが、相手を殺そうというものであれば、逆に自分が死んでしまうことになる。  はたして、件の五位の男の私宅から、陰陽師の屍体が見つかった。 「みな私が命じてやらせたものです」  五位の男は全て白状した。  こうして、少将は晴明に救われたのである。  晴明はまた、射覆《せきふう》を能《よ》くしたと言われている。  射覆というのは、覆われたもの、隠されたものを見つけたりあてたりする術のことで、陰陽師は、多く、式盤《ちよくばん》というものを使用して、これらの占術をとりおこなった。式盤には、五行《ごぎよう》、七星《しちせい》、八卦《はつか》、十干《じつかん》、十二支、二十八宿などが描かれており、占いの際にはこれを利用した。  安倍晴明が、蘆屋道満とやった、覆われたものの中身をあてる術くらべの話は有名であり、晴明は、賀茂保憲とも、この覆われたもののあてくらべをしている。  この射覆については、『古今著聞集』に次のような話がある。  ある時、藤原道長《ふじわらのみちなが》が、物忌《ものいみ》をしていた。  物忌というのは、一種の謹慎行為である。  凶事や禍事《まがごと》があったおりや、あるいは、怪異や障害を避けるために、家の中に籠居《こも》って外へ出ないことである。  藤原道長といえば、後一条天皇の時代の権力者である。寛仁三年(一〇一九)に法成寺(御堂)を建立したことから、御堂関白《みどうかんぱく》の名で呼ばれたりもする。 『源氏物語』を書いた紫式部などを中心とした宮廷の王朝サロンのパトロン的な存在でもあった。  この道長が、どのような理由で物忌をしていたのかは記されていないが、道長が物忌中の屋敷には、錚々《そうそう》たる顔ぶれが集まっていた。  解脱寺の僧正|観修《かんしゆう》。  医師の丹波忠明《たんばのただあき》。  武士の源義家《みなもとのよしいえ》。  そして、陰陽師の安倍晴明である。  さて──  時に、五月一日。  大和地方で採れた早瓜《はやうり》を物忌中の道長に献上する者があった。できたばかりの唐瓜《からうり》である。  では、これを皆で食しようかというところへ、 「お待ちを──」  声をかけたのは晴明である。 「御物忌の最中に、外からのものを受け取られるというのは、少し気にかかります」  献上された瓜を並べさせて、占ってみれば、 「この瓜が妖しゅうございますな。何やら障碍《しようげ》をなさんとするものが潜んでおりまする──」  晴明、ひとつの瓜を取りあげてそう言った。 「では、わたくしが──」  観修僧正が前に進み出て、祈祷をすれば、はたしてその瓜がゆらゆらと不気味な揺れ方をする。  そこで、医師の忠明が瓜を手に取り二本の針を打ち込むと、瓜は動くのをやめた。  それを義家が腰刀を抜いて両断すれば、なんと、瓜の中から、真っ黒な蛇が一匹出てきた。しかも蛇の首はみごとに切り落とされており、その蛇の両眼には、忠明が打ち込んだ針が刺さっていた。  晴明を筆頭に、四人のその道の達人たちが、道長の生命を救ったという話である。  次に紹介するのは、『古事談』が伝える花山法皇と晴明の逸話である。  花山院が天皇の位にいた時、頭風《ずふう》にかかった。  頭痛がある。  特に、雨期に入れば頭が痛み、身も世もない苦しみようである。医師を呼び、さまざまな治療を試みたが、その効果がない。 「晴明を呼べ」  花山天皇は、安倍晴明を召して、自分の頭風について占わせた。 「わかりました」  晴明はたちどころにうなずき、 「帝《みかど》は、前世では尊い行者であらせられましたな」  そう言った。 「わが前世に関わりのあることか」 「はい。帝は前世に行者として大峰の某宿で入滅なされましたが、生前の行徳によりまして、今生は天子としてお生まれになられたのでございます」 「それで──」 「葬られておりました前世の髑髏《どくろ》が、昨年の大雨によって土と共に流され、ただいま大峰のこれこれの場所で、大岩と大岩との間に鉢が挟まれております。雨が降りますると、水を含んで岩がふくれ、これが鉢を圧して、帝のお頭《つむり》が痛むのでござります」  つまり、天皇の頭風の治療はできぬが、大峰の岩の間に挟まれている髑髏を取り出してしかるべき場所に葬れば、頭の痛みはおさまるであろうというのである。  さっそく、その場所へ人をやらせて調べてみれば、はたして晴明の言う通りであった。  髑髏を取り出し、言われた通りに供養した途端、嘘のように花山天皇の頭風はおさまったという。  さて──  次もまた、安倍晴明と藤原道長の話である。  法成寺を建立してから、道長は毎日のように御堂に通っていたという。  道長は、一頭の白い犬を可愛がっており、法成寺の御堂へゆく時には、いつもこの犬をともなっていた。  ある時、道長が御堂の門をくぐろうとしたおり、突然にこの白い犬が吠えはじめた。  車から降り、道長が歩き出そうとすると、着ているものの裾を咥《くわ》えて行かせまいとする。 「どうしたのか」  かまわずゆこうとすると、いよいよ激しくこの白い犬は吠えて、道長の前に立ちふさがった。  さすがにこれはおかしいと道長も気づいて、 「晴明をこれへ」  ということになった。  道長が、車の軛《くびき》を支える榻《しじ》の上に腰を下ろして待っていると、晴明がやってきた。 「いや、実はこのようなことになっているのだが、これはいったいどういう仔細があってのことなのか──」  道長は晴明に訊《き》いた。  晴明は、門の前まで歩を進め、 「ははあ、このあたりに何やら悪い気が満ちておりまするな」  そう言った。 「悪い気だと?」 「道長さまを呪詛《ずそ》し奉《たてまつ》らんとするものが、この門の下に埋められておりまするぞ。白い犬には神通力が宿ると申しますから、犬はこれに気づき、道長様をお止め申しあげたのでしょう」 「門の下のどこじゃ」  晴明、しばらく門の下の土の上を見つめてから、 「ここでございます」  地の一点を指差した。 「そこを掘ってみよ」  道長に言われて、下人《げにん》たちがそこを掘ってみれば、五尺ほどの深さの土の中から出てきたものがあった。  それは、二枚の素焼きの土器《かわらけ》を合わせて、黄色い紙捻《かみより》で十文字にからげたものであった。  紙捻を切って、合わせられていた土器を開いてみると、なんと土器の底に辰砂《しんしや》で赤く一文字が書かれているだけである。 「これは?」  道長は訊いた。 「これは、たいへんに怖ろしい呪法《ずほう》でございます」 「どのようなものなのじゃ」 「もしも道長様が、これの埋められた土の上をお踏みになられていたら、血を吐き、今夜中にもお亡くなりになっていたことでしょう。踏んでいたらこの晴明でも道長様のお生命をお助けできぬところでした」  言われて、道長、言葉もない。 「しかし、この呪法を知る者、この晴明以外にそう何人もいるものではありませぬ──」 「心あたりでもあるのか」 「かようなことができる者といえば、まず、播磨《はりま》の道摩法師──」 「なに、道摩法師とな」  道摩法師──つまりこれは晴明の宿敵とも言うべき蘆屋道満のことである。この時代、法師といえば、僧のことだけでなく、陰陽師もまたこの名で呼ばれることが多かった。 「本人に訊ねてみるのが一番でしょう」  晴明は、懐より一枚の紙を取り出し、それを鳥のかたちに引き結んだ。  嘴《くちばし》のあたりに土器のひとつを乗せ、それを空へ投げあげると、白い紙はたちまち一羽の白鷺《しらさぎ》と変じていた。  白鷺は、嘴に土器を咥え、南の方に向かって飛んでゆく。 「あれを追いまするぞ」  晴明が、下人たちと共に白鷺を追ってゆくと、白鷺は六条坊門|万里《までの》小路《こうじ》にある、古い屋敷の上まで飛んでくると、諸折戸《もろおりど》から中に入って行った。  追って中へ入ろうとする下人たちを制して、 「これより先は、わたしひとりでまいりましょう」  ただひとり、晴明がその屋敷の中に踏み入ってゆけば、中は荒れ果てて、家の中まで草が繁っている。  その草の間に、髪がぼうぼうの、汚いなりをした老法師がひとり、座している。  その肩の上に白鷺がとまっていた。  白鷺は、すでに嘴に土器を咥えてはおらず、土器は、いつの間にか老法師の手に握られており、いつ汲《く》んだのか、その中には水が溜《た》められている。 「来たかよ、晴明……」  老法師はにいっと笑ってみせ、その唇から黄色い歯を覗《のぞ》かせた。  老法師が、手に持った土器を持ちあげると肩にとまっていた白鷺が、首を伸ばして中の水をうまそうに飲んだ。  と──  見る間に白鷺の姿がへなへなとしおれ、もとの紙となって、床へ落ちた。 「やはり、あなたでしたか、道摩法師殿──」  晴明が言えば、 「堀河左大臣、顕光《あきみつ》に頼まれてやったことよ」  あっさりと、道摩法師が言った。  堀河左大臣顕光というのは、関白太政大臣|藤原兼通《ふじわらのかねみち》の長男であり、道長とは政治的に対立関係にあった人物である。  その藤原顕光に頼まれて、呪詛をしたと道摩法師は言うのである。 「よろしいのですか」  晴明は訊いた。 「何がだ」 「顕光様の御名を口になさってしまいました」 「かまわぬさ。あの男には言うてある」 「何と?」 「この呪詛、しくじれば覚悟せよと──」 「覚悟?」 「わが呪詛がしくじるということは、向こうに安倍晴明がついたということだとな。晴明が相手であれば、隠しごとなどできるものではないと、顕光には言うた」 「それでも、顕光様、道長様を呪詛せよと?」 「うむ」 「しかし、あなた様であれば、このわたしをだしぬく手だても色々とおありだったでしょうに」 「わしに、おまえを殺せと言うか」 「怖いことをおおせになりますね」 「おまえが言うたのだ」 「そのようなことを言いましたか」 「言うたさ」 「はて──」 「ぬしをだしぬくには、ぬしを殺すしかあるまい」  道摩法師は、くつくつと泥の煮えるような声で笑った。 「道長が連れ歩いている犬、あれもおまえの入れ智恵であろうが」 「はい。わたしが、道長様に献上いたしました」  ふふん、  と声にならない笑みを唇の端に噛み殺して、 「飲まぬか」  道摩法師は、晴明に向かって、手に持っていた土器を差し出した。  さっき、白鷺が飲んで空になったと見えていた土器の中に、酒がなみなみと溜められていた。 「いただきましょう」  晴明は、道摩法師の前に座して、土器を受けとり、中の酒を飲み干した。 「いかが」  晴明が道摩法師に、空になったはずの土器を差し出せば、まだ、その中にはたっぷりと酒が入っている。 「うむ」  今度は道摩法師が土器を受け取り、中に入っている酒を飲み干した。 「このこと、道長様にどのように報告いたしましょう」  土器をやりとりしながら、晴明が問えば、 「ぬしが見た通り、ありのままを伝えればよい」  悠然として、道摩法師は言った。 「この道摩法師、蘆屋道満が、顕光に頼まれて呪詛したとな」 「よろしいのですか」 「あの道長に、このわしを殺すだけの器量はあるまいよ」  黄色い歯を見せて、道摩法師は楽しそうに笑った。  そして──  道摩法師の言う通りとなった。  晴明から事の次第を聞かされた道長は、 「これは道摩法師の科《とが》にはあらず。悪いのは、これを命じた顕光である」  そう言った。  道摩法師をもし死罪などにすれば、その怨霊がどれほど恐ろしい祟りをなすかわからぬと、それを道長がおそれたのである。  道摩法師は、本国の播磨国に追放されただけであった。  道長を呪詛させた顕光の方は、 �死後に怨霊となりて、御堂殿|辺《あたり》へは祟《たたり》をなされけり。悪霊左府と名づく云々《うんぬん》�  と『宇治拾遺物語』にはある。  これは、晴明後年の逸話であり、本編の物語よりはしばらく後の話である。     四  播磨国といえば、すでに書いたように、蘆屋道満など、多くの陰陽師が輩出された陰陽大国である。  保憲の賀茂家や晴明の土御門家が、朝廷や貴族に仕えた表の世界の陰陽師であるなら、播磨国が生んだ陰陽師たちは、民間の中で活躍した土着の法師たちであった。  法師が、陰陽師を指す言葉でもあることはすでに書いた。  ちなみに、正式な法師──つまり、僧と陰陽師との違いについて書いておきたい。  平安時代、僧たちも、陰陽師たちと同様に様々の呪法を行っている。  真言宗密教僧の空海が、神泉苑において雨乞いの呪法を行ったことはよく知られており、僧たちの法力によって、貴族たちが鬼の難を逃れた話もたくさんある。  この僧と陰陽師の違いを表すのに、一番手ごろであるのは、 �出家�  という言葉であろうか。  陰陽師と同様に、呪詛をしたり、怨霊を鎮《しず》めたりするが、僧はあくまでも出家をした存在である。俗世を捨てて、仏の教えに帰依しているのが僧である。これに比べて、陰陽師は、僧がそうであるような意味では、出家をしていないし神にも仏にも帰依していない。 �俗�  この言葉が、陰陽師という存在について考えてゆくおりの、ひとつの鍵になるかもしれない。  陰陽師がその背景に持っている陰陽道という中国の思想は、ある意味では宗教とは別のものなのである。  その意味で、陰陽師というのは、純粋な技術者であったと考えていい。  安倍晴明で言えば、仏教の行者がやるように、那智の山中に千日こもって修行をしたりしているが、出家をしていない。 �晴明は、俗ながら那智の千日の行人なり�  と『古事談』にもある。  さて、余談はここまでにして、話を播磨国にもどしたい。  播磨国に、ひとりの陰陽師──法師がいた。  名は、智徳《ちとく》。 �其《その》法師は糸《いと》只者にも非《あら》ぬ奴|也《なり》けり�  と『今昔物語集』は記している。  ある時──  多くの荷物を積んで、京に上る船があった。  この船が、明石沖で海賊に襲われた。  海賊たちは、荷をことごとく奪い去り、乗っていた人間たちを刀で斬り殺してしまった。助かったのは、いち早く海へ飛び込んだ船主と下人のふたりだけである。  このふたりが、ようやく陸《おか》に泳ぎついて泣いていると、そこへ、杖を突いて現れたひとりの老法師があった。  これが智徳である。 「これ、そこでいったい何を泣いておるのじゃ──」 「実は、しばらく前にこの海で海賊に襲われたのです。荷も奪われ、仲間もほとんど殺されて、生き残ったのは、わたしたちふたりだけなのです」  船主が答えれば、 「それは、いつのことかね」  智徳が訊いた。  これこれ然々《しかじか》の時でございますと船主が答えると、智徳法師は天を眺め、海を見やり、風の方向を眼でさぐって、 「なるほど──」  うなずいた。 「ならば、まだ、このわたしが何とかしてさしあげることができるかもしれぬな」 「本当ですか」 「まあ、やるだけはやってみようかね」  智徳は砂浜にあげられていた一隻の小舟を見つけ、 「あれにいたそうか」  そちらへ向かって歩いていった。 「これを漕ぐことはできるか」  智徳法師が船主と下人に訊いた。 「もちろんです」 「では、ゆこうか」  下人に小舟を漕がせて、智徳法師は船主と一緒に沖へ出ていった。  沖で舟を止め、智徳法師は舟の中で立ちあがった。  杖を持ち、その先を海へつけて、海の表面に何やら文字を書きはじめた。書きながら、口の中で、呪文を唱えている。  呪文をひとしきり唱えてから、 「さて、ではもどるとしようかね」  智徳法師は杖をもどして、また船中に腰を下ろした。  舟が陸にもどると、智徳は海に向かって立ち、見えない何ものかを見えぬ縄で縛るような動作をしはじめた。 「何をなさっておいでなのですか」  船主が訊けば、その動作をやめて、 「これでやれるだけのことはやった」  智徳は言った。 「力の強い者五、六人を集めてきなさい」  言われた通りに、船主が近在から男たちを集めてくると、智徳法師は陸に小屋がけをさせて、 「では、ここでしばらく待つといたそうか。誰かに海の方を見張らせて、何かあったら知らせなさい」  自らは小屋の中に入って、ごろりと横になってしまった。 「待つと言っても、どのくらい待てばよろしいのですか」  船主が問えば、 「さあ、五日になるか、十日になるか……」  言い終えて眼を閉じれば智徳法師はもう鼾《いびき》をかいている。  船主も半信半疑である。  この汚い老法師に騙《だま》されたのかとも思うが、智徳が金を出せとも言わないから、悪意のないことくらいはわかる。しかし、本当に荷がもどってくるのかと考えながら待つうちに、一日、三日、五日と日は過ぎていった。  そして七日目の昼──  沖の方に、小さくぽつんと船影らしきものが見えた。それが、だんだんと近づいてきて、すぐ先の海の上で動かなくなった。  雇った男たち五、六人と小舟に乗り、船主がその船に漕ぎ寄せてみると、はたしてそれは、件の海賊船であった。  おそるおそる海賊船に乗り込めば、海賊たちはいずれも酔ったようになって、船のあちらこちらに倒れている。  これ幸いと海賊たちを皆縛りあげ、船の中をさぐってみると、奪われた荷も全て無事に残っている。 「いや、法師様、あなたのお力で荷も皆もどってまいりました。ありがとうございます」  船主は智徳に礼を言い、海賊たちを役人に引き渡そうとしたが、 「お待ちなされ。この者たちを役人に渡せば、いずれは罪を問われて首を切られることになろう。それではわたしが殺生をしたことになってしまう」  智徳はそう言って、海賊たちの縄を解き、 「よいか、今後二度とこのようなことするでないぞ」  彼らを放してやったという。 「智徳様はこれからどちらへ」  別れ際に、船主が訊けば、 「都へな」  智徳法師は言った。 「都へ?」 「うむ。なんでも安倍晴明とかいう陰陽師がいて、なかなかの方術を使うということなのでな。どれほどのものか、ひとつ試してやろうかと思うているのさ」     五  すでに、晴明は自分の屋敷に帰っている。  広沢の寛朝僧正の僧坊まで出向いて、空海の直筆を見てきたところであった。  まだ夕刻でこそないが、陽は西に傾いている。  夜には、源博雅《みなもとのひろまさ》が訪ねてくることになっている。  それまでには、まだ時間があった。  亀と蝦蟆が、博雅が来るまでには遍照寺から届くであろう。  桶に汲まれた澄んだ水で丁寧に足を洗い、乾いた布で水滴をぬぐいとってしまうと、足がすっきりとした。その足で床を踏めば、これまでの長雨で、板がまだ水を含んでいるのがわかる。 「誰にやらせるか──」  晴明は、声に出して低くつぶやいた。  博雅が来れば、いずれは酒《さけ》になるはずであろうから、その酒《ささ》を買いに誰をやらせるかと、晴明は考えているのである。  誰もいないはずの家の中で、ざわり、と何か動くものの気配があり、続いて、ひそひそという息とも囁《ささや》きともつかない、声でない声のようなものが湧きあがった。 �わたしがまいりましょう� �わたしにお申しつけ下さりませ� �いえ、わたくしが──�  その時── 「おたのみ申します」  外から声が聴こえた。  家の中に満ちていた気配が消えていた。 「おたのみ申します」  また聴こえた。  誰か!?  聴かない声であった。 「安倍晴明様、ござりまするか──」  玄関まで出てゆくと、そこに、見るからに好好爺《こうこうや》といった老法師が立っていた。  着ている衣服は、長い旅をしてきたのか、道中の埃を吸って薄汚れている。裾も擦り切れてぼろぼろであった。  老法師の左右に、十歳ばかりの童子《わらわ》がふたり、立っている。  その童子《わらわ》を見るなり、 「ほう……」  晴明は小さく息を吐き、 �式神ではないか�  という言葉を飲み込んだ。  人の子供のように見えるが、人でないもの。  一種の精霊である。  式神を使うとなれば、いずれはどこぞの陰陽師であろう。しかも、その数がふたりともなれば、そこそこの実力のある陰陽師に違いない。 「これはこれは、晴明様でござりまするか。わたくしは播磨国に住む者でござりますが、陰陽道に興味を持っております」  この老法師、奇妙なことを言う。  式神をふたりも使っておきながら、素人のような顔で興味を持っているとしか言わないのは、いささかひかえめな表現であった。 「晴明様、この道においては並なみならぬお腕まえと聴きおよんでおりますれば、この道について、多少なりとも学ばせていただければと思い、出かけてまいりました」 �少々《せうせう》の事習ひ奉《たてまつ》らむと思給《おもひたま》へて参り候《さぶらひ》つる也《なり》�  少し教えていただけませんか、と言うのは、昔も今も道場破りの常套句である。  ははあ──  晴明は心の中でうなずいた。  この法師、このおれを試しに来たか。  晴明の赤い唇には、笑みが浮かんでいる。  晴明は、両手を袖の中に入れ、法師からは見えぬように印を結び、声に出さずに呪《しゆ》を唱えた。 「お話はわかりましたが、生憎《あいにく》と今夜は用事があって暇がございません。今日のところはひとまずお帰りいただいて、また日をあらためておいでいただけますか」 「おおせごもっともでございます。突然にやってきて陰陽の道について教えよというのもいきなりでしょうから、後日よき日を選んでまたうかがわせていただきましょう」  老法師は、両手を擦り合わせ、それを額にあて、 「ではまたの日に──」  そう言って屋敷から出ていった。  しかし、晴明は奧にはひっ込まずに、笑みを浮かべながら外を眺めている。  やがて──  向こうの方から、件の老法師が、独りでもどってくるのが見えた。  晴明が眺めていると、法師は、人の隠れそうな所や、車寄せなどを、いちいち何かを捜すように覗きながら歩いてくる。  ついには屋敷までもどってくると、晴明の前に立った。 「どうなさいました」  晴明が涼しげな眼で訊いた。 「いや、供の童子《わらわ》をふたり連れていたのですが、この姿が見えなくなってしまったのです。お屋敷を出る時には、確かについてきていると思っていたのですが、もしやこちらに残っているのかと──」 「それはおこまりですね。しかし、この屋敷に、誰も残っていないのは、ごらんの通りですよ」  晴明はとぼけている。  法師の額には細かい汗が浮いてきて、その眼はすがるように晴明を見つめている。  ついに、老法師は覚悟を決めたのか、そこに両膝を落とし、両手を地面に突いた。 「もうしわけございません。実は、わたくしは、あなたさまを試そうとしてやってきた者です」  頭を下げた。 「我が名は、智徳ともうします。都に安倍晴明なる高名の陰陽師がいると聴きおよびまして、何ほどのことやあらん、術くらべをせんと思うてここまでやってまいりました」  法師は顔をあげ、 「お願い申しあげます。あれをお返しくださりませ」  そう言った。 「はて、何のことでしょう」  晴明も、なかなか意地が悪い。 「あの童子ふたりは、わたくしの式神でございます。昔より、式神を使うことはこの道の人間のすることでございますが、他人の使う式神を隠してしまうことなど、めったなことでできるものではありません。晴明様、これほどのお方と見ぬけなんだは、わたくしの修行の至らぬところ」 「しかし、隠した覚えはありませんよ。ちょっと用事があって、ふたりをお借りしましたがね」 「借りる?」  と智徳法師が首をひねったところへ、 「お師匠さま」 「お師匠さま」  声がして、童子ふたりが門から屋敷へ入ってきた。  智徳法師は立ちあがってふたりをむかえ、 「おお、おまえたち、どこへ行っておったのだ」  そう問うた。 「晴明様に頼まれて、そこまで酒《ささ》を買いに行っておりました」  見れば、ふたりの童子は、ひとつずつ酒の入った瓶子《へいし》をぶら下げている。 「そういうわけさ」  晴明は、ふたりの小さな手から瓶子を受け取りながら言った。  智徳法師はすっかりおそれいり、 「お弟子のひとりに加えて下され」  そう言って、木札に自分の名を書いて晴明に渡し、屋敷を出ていった。  陰陽師が、木札に自らが自らの名を記したものを他の陰陽師に渡すというのはどういうことか。  これは、自らの生命を晴明に預けたのと同じ意味のことである。  受け取った札に呪をかければ、いついかなる時でも、晴明は智徳法師の生命を奪うことができる。  名札を渡す──陰陽師と陰陽師の間にあっては、これ以上に重い誓約はない。  それほど、晴明の力に、智徳法師がまいってしまったということであろう。  土御門大路にある晴明屋敷──  この屋敷に出入りできる者は、そう多くなかった。  家に誰もいない時でも、夜になると門が閉ざされ、家の中に灯りが点ったという。  人の動いた気配もないのに、蔀戸《しとみど》が上げられ、また降ろされた。  また、晴明は、自ら操る式神を、一条戻橋の下で飼っていたとも言われている。  いったい、どれほどの数の式神が晴明の許にいたのか。  百とも、千とも言われるが、万と言う人間もおり、その数、定かでない。 [#改ページ]    巻ノ一 源博雅     一  夜になって、月が出た。  どうやら梅雨は明けたらしい。  雲が割れて、驚くほど透明な夜の天に、満月にはまだいくらか間のある、青い太めの瓜《うり》のような月が掛かっている。  軒下から差し込んでくる月光の中で、安倍晴明《あべのせいめい》と源博雅《みなもとのひろまさ》は、ほろほろと酒を飲んでいる。  晴明の屋敷の濡れ縁──簀《すのこ》の上であった。  ふたりは、円座《わらざ》に腰を下ろし、杯を片手に持って向かいあっている。  晴明の右側、博雅から見れば左側が庭である。  奇妙な庭であった。  ほとんど、手入れというものがなされていないように見える。  青い花をつけた鴨跖草《つゆくさ》。  下野草《しもつけそう》。  撫子《なでしこ》。  蛍袋《ほたるぶくろ》。  早咲きの桔梗《ききよう》も咲いている。  それらの草や花が、あちらにひと叢《むら》、こちらにひと叢と、あるいは葉を繁らせ、あるいは花びらを広げている。  どれも野の草や花ばかりであった。  まるで、どこかの野原の一部を、そのままこの庭へ移しかえたようである。  遍照寺《へんしようじ》の庭とは対照的であった。  どの草も花も、昼の雨が乾ききってはおらず、さらに夜露をのせて、みっしりと重さを増している。  霧よりも細かな水滴の微粒子が、わずかな風に動いて、庭のこちらやあちらの草の間を流れている。  そこへ、月光が注いでいる。  夜露がその光を宿して、きらきらと闇の中で光っている。  まるで、天の星が、地上に降りてきたように見える。  蛍のあかりが、  ひとつ、  ふたつ、  みっつ……。  夏の虫が、夜の草叢の中で、幾つか鳴いている。  博雅が、うっとりと酔ったような顔で庭を眺めているのは、酒のためばかりではない。  晴明は、柱のひとつに背を預け、右膝を立て、その上に、杯を持った右手の肘《ひじ》を乗せている。  晴明は、白い狩衣《かりぎぬ》に身を包んで、杯を時おりその赤い唇に運んでいる。  晴明の左側に、木の箱がひとつ置かれていて、晴明は左手をその上に乗せていた。  どちらも口数は少ない。  無理に言葉を交わさずとも、充分に通じあえるものが、この晴明と博雅の間にはあるらしい。  やがて── 「おい、晴明よ」  想い出したように、博雅が口を開いた。 「おまえ、また何かしたらしいな」 「また?」 「広沢の寛朝僧正《かんちようそうじよう》のところで、亀と蝦蟆《かえる》を、柳の葉で潰《つぶ》したそうだな」 「なんだ、そのことか」  晴明の答えは素っ気ない。 「宮中では、公達《きんだち》たちがその噂を振り撒いているぞ」 「噂は風よりも疾《はや》いというが、博雅よ、もうおまえの耳にも届いているとはな」 「公達たちの中には怯《おび》えている者もいる。晴明が供養すると言っているが、もし、死んだ蟲《むし》たちが祟《たた》るようなことがあったらどうしようかと、おれに訊ねてきた者もいたよ」  当時、蟲と言えば、昆虫だけでなく、蜘蛛のような節足動物や、蝦蟆や蛇なども含む呼び名であった。 「放っておけばよい」  晴明は、杯を濡れ縁の上に置いて博雅を見やった。 「蟲たちが祟ることはなかろうよ」 「ほう」 「実はな、博雅。あのものたちは死んではおらぬのだ」  晴明は、楽しそうに微笑した。 「なに!?」  晴明は、木箱に乗せていた手を離し、その箱を博雅の方に押しやった。 「これがどうした」 「開けてみろ」  晴明に言われて、博雅は杯を濡れ縁に置いて、木箱に手を伸ばし、蓋《ふた》を持ちあげた。  中を覗《のぞ》き込む。  しかし、灯明皿が床に置かれているため、箱の奧まではよく見えない。  中に、何か入っているのはわかる。  そして、中に入っているものは、どうやらもぞもぞと動いているらしい。 「どれ──」  博雅は、箱を手に取り、月明りの中に差し出してもう一度中を覗き込んだ。  思ったよりも重い。 「なんと、晴明、これは……」 「見えたか」 「蝦蟆と亀ではないか」 「そうだ」 「これは、遍照寺でおまえが潰したという──」 「いや、潰してはおらぬ」  博雅は、しげしげと箱の中を見つめ、 「生きている」  不思議そうにつぶやいた。 「だからそう言ったろう」 「どうなっているのだ」 「蟲とはいえ、生命あるものだ。たやすく殺すわけにはいかぬよ。しかし、公達たちに、つまらぬ噂をたてられるのも好まぬからな」  ──晴明も、口ほどにもない。  ──蝦蟆が殺せるかと試そうとしたら、うまいことを言って逃げおった。 「そういう噂を広められては、おれも仕事がやりにくくなるからな」  晴明は、すました顔で言った。 「しかし、公達たちは、たしかに亀の甲羅が割れ、蝦蟆が潰れるのを見たと言うていたぞ」 「呪《しゆ》をかけたからな」 「呪を?」 �方術を使えば、こんなに柔らかな柳の葉一枚を乗せるだけで、あなたの掌を潰すこともできるのですよ�  そのおり、晴明は公達たちにそう言っている。 「その時に、公達たちは呪にかかったのさ」 「寛朝僧正殿も?」 「寛朝殿が、そのくらいの呪になぞかかるものか。寛朝殿は、皆お見通しだよ」 「では──」 「柳の葉が、亀と蝦蟆の上に舞い落ちたところまでは事実だが、亀と蝦蟆は、公達たちにはそう見えただけで、実は潰れてはいなかったのさ」 「では、この亀と蝦蟆は?」 「遍照寺の庭で、毎朝寛朝殿の読経を聴いていた亀と蝦蟆だぞ。いずれ、式神《しきがみ》として使うてやろうと思い、寛朝殿に言って、これをもらいうけたのだ」 「では寛朝殿は、皆御承知で──」 「おれにこれを下されたのよ」 「なんと」 「おまえの来る少し前に、遍照寺から使いの者がやってきて、これを置いていったのさ」 「そういうことだったのか」  博雅は、感心したようにうなずいた。 「博雅よ、その二匹を庭へ放してやってくれぬか──」 「これをか」 「うむ。奧には池もあるから、彼らもここで好きなように生きてゆけるだろう」 「わかった」  博雅はうなずいて、濡れ縁から箱を下に下ろし、縁《ふち》を持ってそれを傾けた。  すると、箱の中から亀と蝦蟆が這《は》い出して、濡れ縁の下に落ち、ほどなく草の中に隠れて姿が見えなくなった。  それを眼で送って、箱を濡れ縁の上に置き、博雅は晴明に視線をもどした。 「ずるい男だ」 「何がだ」 「これで、あの公達たちは、しばらくおまえには頭があがらぬだろう」 「それがねらいだからな」  晴明はそう言って、濡れ縁に置かれた瓶子《へいし》に手を伸ばし、自分の杯に酒を満たした。  杯を唇に運んで、うまそうに酒を含む。 「なかなかよい味だぞ、博雅」  晴明は言った。 「今日、客人があったのでな。客人の連れていた童子《わらわ》に頼んでこの酒を買いにやらせたのだが、どうして、なかなかよい酒を選んできたものだ」 「たしかによい酒だ」  答えて、博雅も杯を口に運ぶ。     二  ほろほろと酒を飲んでいる。  いつの間にか、一本目の瓶子が空いて、二本目になっていた。  この間に、雲はさらに割れて、黒い透明な空が広さを増し、そこに星が光っている。  月は、いよいよ明るく輝き、その横を、雲が東に動いてゆく。 「よい月だな……」  博雅は、口に運んだ杯を、濡れ縁の上にもどしながらつぶやいた。 「うむ」  晴明が、うなずくともなく低く声をあげる。時おり、蛍の青い光が、庭の闇を撫《な》でるように飛ぶ。  植物の放つ濃い匂いが、大気の中に溶けている。 「なあ、晴明よ──」  博雅が、うっとりと庭を眺めながら言った。 「本当に、季節というものは、たしかに動いてゆくものなのだなあ」 「どうしたのだ、博雅」  博雅を見やりながら、晴明が言う。 「どうもしはせぬ。ただ驚いているのさ」 「何に驚いている?」 「だから、その、時がと言うか、季節がというか、こうして動いてゆくものに、おれは驚いているのだよ」 「ふうん」 「見ろよ、晴明」 「何をだ」 「この庭をさ」 「庭がどうしたのだ」 「まさに今が盛りではないか」  どの植物の葉も、茎も、花も、たっぷりと水を含み、みずみずしく凜《りん》と張りつめている。 「これを眺めていると、おれは何だか人がしみじみと愛《いと》しくなってしまうのだよ」 「人が?」 「うむ」 「どうしてだ」 「今はこんなに美しい葉や花も、いずれ秋になれば、散るか枯れるかしてしまうのだろう」 「まあ、そうだろうな」 「今が盛りの時だからこそ、やがて、その草や花が枯れ、衰えた時の姿が想像されて、なんだか、哀しいような、愛しいような不思議な心持ちになってきてしまうのだよ」 「ほう」 「人も、これと同じだ」  博雅は言った。 「人も、老いてゆく……」 「ああ、老いてゆくな」  晴明がうなずく。 「どんなに美しいお方でも、歳をとれば皺が寄り、頬の肉も、腹の肉もたるみ、歯だって抜けてゆくではないか──」 「そうだな」 「このおれもだ、いつまでも若くない。おれもまた老いてゆくものだ。それくらいはわかっている」 「うむ」 「�もののあはれは秋ぞまされる�と歌にもあるが……」 「ああ」 「しかしな、晴明よ。この頃は、おれは少し違うような気がしているのだよ」 「何が違うのだ」 「今も言ったように、草の枯れゆく秋よりも春や夏の盛りの頃にこそ、もののあはれというのをおれは感じてしまうのだよ」  博雅は、酒を運ぶ手を止めて、夜の庭を見やった。  夏の初めだ。  いよいよ梅雨の明ける気配が闇の中に満ちている。 「草が萌《も》え、花が咲きはじめる頃になると、おれはしみじみと溜《た》め息が出てしまうのだよ」  いずれ枯れゆく草。  いずれ散りゆく花。 「なんだかなあ、晴明よ……」  口に運ばず、博雅は杯を濡れ縁にもどし、そうつぶやいた。 「笑うなよ。おれは、この頃、なんだかこの天地のあらゆるものが愛しくてならぬのだ」  博雅は、耳をすませるように沈黙した。  虫が鳴いている。  風が吹いている。 「あの、虫の音を聴いても、虫が愛しい。この風やこの空気の匂いも、この濡れ縁の上にある傷や、杯の重さ、眼に見えるもの、鼻に香るもの、指に触れるもの、耳に聴こえるもの、舌に感ずるもの、ことごとくのものが愛しくてなあ」  晴明は笑わなかった。  晴明の眼元に、優しい表情が浮いている。 「なあ、晴明よ、おまえはそういうことはないか」  晴明は、困ったような、哀しいような、何ともいえぬ微笑を眼と口に残したまま、 「博雅よ、おまえは正直すぎるのだ」  そう言った。 「正直? おれがか」 「そうだ。正直すぎるおまえに、おれはいつも驚かされて、答える言葉を失《な》くしてしまうことがある」 「今がそうだというのか」 「まあ、そういうことだ」 「晴明よ、おまえ、その言い方は少し冷たくはないか」 「冷たいか、おれは……」 「そうだ」 「そんなことはない。おれはおまえでよかったと思っている」 「おれで?」 「酒の相手がさ」 「酒の?」 「おまえがここにいるから、おれはこうして人の世に繋ぎとめられているのだよ」 「人の世に?」 「そうだ」 「晴明よ、それは、なんだかおまえが人ではないような言い方ではないか」 「そう聴こえたか」 「ああ」  博雅は、濡れ縁に置いてあった杯をまた手にとって、それを飲み干した。  空になった杯を床に置き、 「よいか晴明」  博雅は言った。 「いつかも言ったことがあるが、たとえおまえが人でないものであったとしてもだ、この博雅はおまえの味方だぞ」 「おれが妖物《ようぶつ》であってもか?」  からかうような口調で晴明は言った。 「おれは、こういうことについては、うまく説明できぬのだよ。どうもうまい言葉が見つからぬのだが……」  博雅は、何か自分の心の中にある言葉を、ひとつずつ捜しながらしゃべるように言った。 「晴明は、晴明ではないか」 「───」 「もしもおまえが妖物であったとしても、人ではない何かであったとしても、おまえはおまえではないか──」  博雅は、真面目な口調で言った。 「晴明よ、おれもおまえでよかったと思っているのだよ」  博雅は晴明を見つめている。  空になった杯に酒を満たそうともしない。 「おれはなあ、晴明よ。自分でもわかっているのだが、どうも、おれは、他人《ひと》とは少し違うようなのだ」 「どう違う?」 「それが、うまく言えぬのだよ。うまく言えぬのだが、おれは、おまえといる時は、隠さなくてすむのだ」 「何をだ?」 「自分をさ。おれは、宮中にいる時は、いつも、何か鎧《よろい》のようなものを着て、自分を隠しているような気がするのだよ……」 「ふうん」 「おまえとこうして向かいあって酒を飲んでいる時の博雅は博雅だ」  博雅は言った。 「おまえが人であったら一緒に酒を飲むが、人でない妖物であったら酒を飲まぬということではない。おまえが晴明であるから、おれは一緒に酒を飲んでいるのだと、そういうことなのだよ。考えてみるならばな」 「よい漢《おとこ》だな、博雅は──」  晴明は、ぽつりと言った。 「おれをからかうなよ、晴明──」 「からかってはおらん。ほめているのだ」 「ふうん……」  存外に真面目な顔をして、博雅はうなずいた。 �なんだか誉められたという気がしない�  よい漢だと言われて、いつもであれば、博雅はそう答えているところである。 �それはおまえ、おれのことをばかだと言っているのではないか�  そう言う時もある。  それが、その夜の博雅はおとなしく晴明を見やり、 「話をもどしてよいか」  空になった杯に、自分で酒を満たしながら言った。 「話?」 「だから、こうして酒を飲みながら庭を眺めていると、なんだかしみじみとしてしまうという話だよ」 「で、どうなのだ」 「たとえば、愛しいお方がいるとするではないか──」 「いるのか、博雅?」 「いるとすればと言ったろう」 「いるとすれば?」 「そのお方が歳をとってゆく。顔に皺が増え、着ているものの上から見ても、肉や肌がゆるんでくる……」 「うむ」 「そういうことを一番御存知であるのは、御本人のそのお方ではないか──」 「であろうな」 「もとは美しかったものが、ゆっくりとそのお方から去ってゆくのだ……」 「うむ」 「何というか、これは、若い頃にはとても思わなかったことなのだが、そういうことが、何だかおれにはとても愛しいのだよ」 「皺もか」 「うん」 「声が枯れ、頬の肉などが落ちてゆくことも?」 「うん」 「ふうん」 「そのお方が、老いてゆく御自分に対して、心に抱いている哀しみすらも、おれは愛しいのだよ」 「ははあ」 「それは、たぶん、おれも老いてゆくものであるからではないか」 「うむ」 「何なのだろうかなあ、晴明よ」 「何がだ?」 「そのお姿が美しいだとか、そのおからだがまろやかであるだとか、たぶん、そういうことで人は人を愛しいと思うのではないのではないか」 「ほう」 「お姿が美しいとか、お綺麗《きれい》であるとかいうのは、そのお方を愛しいと想うおりの、ただのきっかけのひとつなのではないのかなあ──」 「おい……」  晴明は、博雅を見つめて、声をかけた。 「妙だな」 「妙とは、何がだ、晴明」 「おまえ、いるのではないか」 「いる?」 「だから、愛しいお方がさ。おまえ、どこぞのお方を好きになったのではないか」 「いや、そういうのとは違うのだ」 「何がどう違うのだ。違わないお方ならいるということか──」 「話を急《せ》くな、晴明──」 「急いてはおらん」 「おれはまだ、そのお方の手も握ってはおらぬし、お名前すらも存じあげぬのだぞ」 「やはりいたのか」 「いるとかいないとかいうのとは違うのだ。そのお方がどちらに住まわれているのかもおれは知らぬのだからな」 「いるのだな」 「───」 「そうか、いるのか」 「昔のことだ」  博雅は、顔をやや赤くしている。 「どのくらい昔なのだ」 「十二年」  博雅が言う。  晴明が、あきれ顔になった。 「驚いたな、そんなに昔のことか」 「ああ」 「しかし、博雅よ。どうしておまえ、そのお方の名も知らぬのだ」 「そのお方が、お名を言われなかったからだ」 「訊《き》かなかったのか」 「訊いた」 「訊いたが教えてくれなかったということか?」 「まあ、そういうことだ」 「いったいどういうことなのだ」 「笛だ」 「笛?」 「晴明よ、おれはな、時おりたまらなく笛を吹きたくなることがあるのだよ」 「うむ」 「たとえば、今夜のように月の美しい晩には、ひとりで堀川あたりまで出かけ、ひと晩中でも笛を吹いてしまうことがあるのだよ」 「あるな」 「春の宵などに山桜が揺れ、その上に月などが掛かっていたりすれば、それだけでおれは胸がときめいて、どきどきしてしまうのだ。なにやら心の裡《うち》が苦しくなって、どうにも笛を吹かずにはいられなくなってしまうのだよ」 「それで──」 「十二年前のそのおりも、ちょうどそのような晩であったのだよ」 「ほほう」 「月の明るい晩でな、山桜が散り始めるかどうかという頃さ──」  博雅は、供の者も連れずに、笛ひとつを持って外へ出た。  博雅の官位は、三位である。  高貴な血を引く殿上人《てんじようびと》であり、夜更《よふけ》に、下人のひとりも連れずに外を出歩くなどということは、博雅のような身分の人間は、まずやらない。  しかし、この男は、時おり、平気でそのようなことをする。  十二年前のその晩もそうであった。  堀川に掛かる橋の袂《たもと》に立ち、月明の中で笛を吹く。  横笛。  龍笛《りゆうてき》である。  春の宵の、悩ましい風が吹き、川の瀬音がさらさらと闇の中に響く。  博雅は、うっとりとなって笛を吹いている。  笛の音が、月光の中を、きらきらと天に昇ってゆく。  その色が眼に見えるようであった。  月光と笛の音が宙で溶け合い、どれが月の光でどれが笛の音であるのか、わからなくなる。  博雅は、笛の名手であった。  博雅ほど、天に愛された音楽家はない。  しかも、余るほどの才を持ちながら、その才に本人は気づいていない。  博雅自身が、一種の楽器であった。  笛でもよいし、琵琶でもよい。  どのような楽器の名器であれ、その楽器は自分の名器たることについて無自覚である。  類稀《たぐいまれ》なる楽器でありながら、博雅は楽器としての自分の資質について無自覚であった。  しかし、この源博雅という楽器は、弾く者なしに、自《おの》ずと鳴る楽器であった。自身の心のままに、鳴らずにはおれない楽器である。  天地が動けばその天地の動きに、博雅という楽器は感応してしまう。  心が動けばその心のままに弦を震わせてしまう。  季節が動き、心が揺れれば、博雅という楽器はそのように鳴らずにはおれないのである。  鳴らずにはおれない──  苦しい──  それは楽器にとってあたりまえのことである。  博雅が笛を吹くというのは、鳴らずにおれない楽器が、自ら音を奏でることなのである。  博雅は、笛であった。  月光の中に置かれた笛が、その月光に耐えきれずに、自ら音をたてている。  すでに、博雅自身には、笛を吹いているという感覚がない。  動いてゆく季節や天地の気配が、博雅の肉体に入り込み、そして通り過ぎてゆく。その時に、博雅という笛が、官能的な音をたてるのである。  悦楽──  博雅という肉体は、この天地が、自らを語る時の楽器であった。  人であろうと、天地であろうと、自らを語らずにはおれない時があるのである。  そのような意味で、源博雅という存在は、天地のための沙庭《さにわ》であったといっていい。  どれほどの時間が過ぎたか──  ふと気がついて、博雅は眼を開いた。  これまで、眼を閉じて笛を吹いていたのである。  笛を唇から離して、向こうを見やると、そこに一台の牛車《ぎつしや》が停まっていた。  川岸に植えられた柳の下である。  女車《おんなぐるま》であった。  月明りでうかがってみれば、舎人《とねり》と下人らしい男がふたり、その女車についている。  はて?  何事であろうかと博雅は思った。  この自分に用事があってのことか、あるいは、このあたりに何か他の用事でもあるのか。  博雅は、笛をやめて女車の方を眺めていたが、車はただそこに停まっているだけで、誰かが降りてくるわけでも、声をかけてくるわけでもない。  何やら、風の中によい香りが漂っているが、どうやら女車から流れてくる沈香《じんこう》の匂いらしい。  どこかの高貴なお血筋の姫でも、お忍びであの車に乗っておられるのだろうか──  博雅はそう思ったが、こちらから声をかけて確かめる筋のものでもない。  その晩は、博雅はそれで帰ったのだが、その女車との出会いは、その晩で終わったわけではなかった。  その翌晩も、博雅は笛を吹きに堀川まで出かけている。  ひとしきり、橋の袂《たもと》で笛を吹き、気がついて顔をあげると、また、あの女車が停まっていたのである。場所も、昨夜と同じ柳の下であった。  妙なことがあるものだと博雅はそう思ったが、やはり、声もかけずにそのままにした。  博雅は、そのまた翌日にも笛を吹きにゆこうとしたのだが、生憎の雨でそれをやめた。  一日おいて出かけてゆくと、また女車は停まっており、さらにその翌晩も女車は停まっていた。  その女車が、どうやら自分の吹く笛を聴きに来ているらしいということが博雅にわかったのは、五日目のことであった。  もしかしたら、この車は、自分の笛を聴きにきているのかもしれない。  しかし、それにしても、それはいつからなのだろうか。  最初に見たのは四日前の晩だが、その前からも、時おりあの場所へ出かけては、博雅は笛を吹いている。  もしかしたら、もっと前からあの車は来ていたのに、自分が気づかなかっただけなのか。  博雅は気になった。  いったい、どういう方があの女車に乗っておられるのだろうか。 「でなあ、晴明よ──」  博雅は言った。 「おれも、なんだかその車のことが妙に気になってなあ──」  五日目の晩に、とうとう声をかけたのだという。  博雅は、笛を持っていた手を下ろし、女車の方へ歩み寄った。  半蔀車《はじとみぐるま》で、黒い牛が軛《くびき》に繋がれている。  牛の両脇に、舎人と下人と見える男がふたり、無言で立っていた。  博雅は、車の前に立ち、舎人にではなく、直接車の乗り主にむかって声をかけた。 「毎晩、わたしが笛を吹くたびにいらしているようですが、いったいどちらのお方がお乗りになっているのですか。このわたしに何か御用でもおありになるのですか」  博雅が問えば、 「これはまことに失礼をいたしました」  そう答えたのは舎人であった。  舎人の男は、下人と共にそこへ片膝を突いて、 「これに乗っておりますのは、我らがお仕え申しあげているお屋敷の姫君でござります」  頭を下げた。  舎人の語るには、 「これより七日前の晩に、姫君がお寝《やす》みになられようとしたおり、外より微《かす》かに聴こえてまいりました笛の音がござりました──」  姫君は、その笛の音が消えるまで聴いていて、それから床に入ったのだが、翌日になってもその笛の音が頭から離れない。  そしてまた夜になると、昨夜と同じ笛の音が聴こえてきた。  耳にすればするほど、笛の音は心地良く、耳の奧に響いて残っている。 「いったいどういうお方が奏《そう》していらっしゃるのでしょう」  気になって、ついには舎人に命じて車を出させ、笛の音をたよりに堀川小路をやってくれば、はたして、堀川に掛かる橋の袂に直衣《のうし》を着た男が立って、月光の中で笛を吹いているではないか。  こんなに遠くで奏《かな》でている笛の音が聴こえていたとは、これは並のお方ではあるまい──  そうして、毎夜、笛の音が聴こえるたびに、 「こうして、笛を聴きにまいっているのでござります」  舎人は言った。  この間、車の中にいるはずの姫は無言であった。  外で交わされている会話は当然ながら聴こえているはずであったが、簾《すだれ》の奧はひっそりと静まりかえっているばかりである。 「どちらのお屋敷の姫君なのですか」 「まことにもうしわけござりませぬが、姫様お忍びでござりますれば、もうしあげられません。もしも、お邪魔であれば、明晩よりこちらへはまいりませぬが……」 「いや、それにはおよびませぬ。わざわざ声をかけるという不粋をしたのはわたしの方ですから──」  博雅が言うと、 「もし──」  車の中から声がかかった。  細い女の声である。  柔らかな風が、薄い絹の上を撫でてゆくような声であった。  博雅が車に顔を向けると、簾の端がわずかに持ちあがり、白いなよやかな手がそこから出てきた。見れば、細い指が、桜の小枝を握っている。  桜の花が、まだ残っている枝であった。 「これを──」  女の声が言った。  博雅が手を伸ばしてその枝に触れると、簾の間からえも言われぬ甘やかな匂いが届いてきた。  沈香の匂いであった。  沈香に、幾つもの香木を混ぜた香りであった。  博雅がその枝を手にすると、すうっとその手が車の内側にもどり、簾はもとのように降りてしまった。その時に、車の中の女が着ているものの裾が、ちらりと見えた。  白と赤い蘇芳《すおう》の色──  そのまま、女が声もかけぬのに舎人と下人は立ち上がり、ごとり、と車が動き出した。  しずしずと、月光の中を車が去ってゆく。  博雅は、左手に笛を握り、右手に桜の枝を握って、車が遠ざかってゆくのを見送った。 「その時、お顔を見ることはできなかったのだが、なんとも奥床しい姫だとおれは思ったのだよ」  博雅は、晴明に言った。 「お声も耳によく染《し》みるものであったし、指も白く細かった。中より香ってきたのは、あれは薫衣香《くのえこう》であったなあ。簾の下よりちらりと見えたおめしものは桜襲《さくらがさね》であったよ」 「それで、それきりか」 「いや、まだこの先があるのだ」 「ほう」 「おれが笛を吹きにゆくと、件《くだん》の姫がやってくるということが、その後もまだしばらく続いたのだよ」  博雅が笛を吹きにゆけば、いつの間にかあの牛車がやってきて、笛の音を聴いている。  それが、三月《みつき》近くも続いたろうか。  そこそこに雨の降る日であっても、博雅が出かけていって笛を吹くと、姫はやってきた。  この間に、言葉はひと言も交わされてない。 「あれは、ちょうど、今頃の時期であったよ……」  博雅は、空になった杯に酒を注ぎ、それを飲み干して、しみじみと言った。 「梅雨の頃で、雨が止み、雲が割れ、月の出た晩であった……」  その晩──  いつものように、博雅は笛を吹いていた。  細かな、霧のような水気が地を這い、天からはほろほろと月光が差している。  あちらの柳の下には、いつものように女車が停まっている。  と──  博雅の笛に合わせるように、響いてきたものがあった。  琵琶の音であった。  笛をやめずに、視線をやれば、件の女車の中からその音は聴こえてくる。  なんという……  博雅は、心の中で声をあげていた。  なんという心地よい音であることか。  弾き手の腕は確かであり、心がこもっている。己れのこころをほどくように、琵琶から音が出てきているというのがわかる。  琵琶の音は、博雅の笛に重なり、博雅の笛は琵琶の音に重なった。  それが、月の光の中でゆらゆらと光りながら睦《むつび》あっているようであった。  博雅は、我を忘れて笛を吹いた。  夢の中に遊ぶような心地であった。  博雅は恍惚となって笛を吹き続けた。  どれだけの時間が過ぎたであろうか。  博雅が笛をやめた時、琵琶の音もまたやんでいたのである。  うっとりとしているところへ── 「モウシ……」  あの舎人が声をかけてきた。  何ごとかと博雅が立ち止まれば、 「姫がお渡ししたいものがあると申されております。もうしわけございませぬが、あちらまでいらしてはいただけませぬか」  舎人が丁寧に頭を下げる。  わかった──  博雅は、うなずき、いそいそと車まで歩いていった。 「今の琵琶は、あなたが……」  博雅は声をかけた。 「つたなき手でお邪魔をしてしまいました」  女の声が、車の中から聴こえてくる。 「いいえ、邪魔などと、そんなことはありません。時の経つのも忘れておりました……」 「今宵は、ついたまらずに自ら琵琶を弾いてしまいましたが、お許し下されませ」 「いや、今の琵琶の音、古今の逸品に勝るとも劣らぬもの。さぞや名のある琵琶では──」 「いいえ、決してそのようなものではござりませぬ」  女のひそやかな声に、 「何か、御用がおありなのですか」  博雅が言うと、いつかのように簾の端がほんの少し持ちあがり、そこから、あの時にも見た白い手が出てきた。その細い指に、今度は芍薬《しやくやく》の枝が握られていた。  白い重そうな花がほころびかけ、なんともいえぬ甘い香りが漂ってくる。  それが、女が衣服に薫《た》き込んでいるあの薫衣香の匂いと混ざり合い、博雅は、この世のものならぬ場所にその身があるような心地がした。 「これを……」  女の声が言った。  博雅がその花を手にすると、その日の夕刻まで降っていた雨にまだ濡れていて、花がずっしりと重い。 「これまでありがとうございました、博雅さま──」  車の中から女の声が届いてきた。 「わたしの名を御存知でしたか」 「はい」  女がうなずく。 「これまでとは、どういう意味なのですか」  問うても、簾の中は沈黙するばかりで、答えはない。 「お顔を──」  博雅が言うと、何ごとか考えているような沈黙がしばらくあり、やがて、白い指が簾の下方をつまむのが見えたかと思うと、するすると簾があがっていった。  青い柳襲《やなぎがさね》を来た女が、車の中に座していた。  女は、博雅がそこにいないかのように、掲げた簾の陰から月光の中に身を乗り出し、天を見あげた。  二十歳ばかりと見える、美しい女であった。  天を見あげる大きな濡れた黒い瞳に、月の色が映っている。 「よい月……」  女の紅《あか》い唇がそうつぶやいた。  ゆっくりと、簾が降りてゆく。  女の顔が、隠れてゆく。  博雅は、口を開きかけ、声をかけようとするが、言葉が出てこない。  簾が閉まった。 「もし、お名を──」  博雅は言った。  しかし、声は返ってこない。  ごとり、と牛車が動き出した。     三 「それで、そのお方とはそのままになってしまったのだよ」  博雅は言った。  それから、ひと月近く、おりを見ては堀川まで出かけてゆき、笛を吹いたのだが、もう、牛車が現れることはなかった。 「博雅よ、おまえ、そのお方が来ている間に、誰でもよいから人をやって、その牛車の後をつけさせればよかったのだ。それをしなかったのか──」  晴明が言う。 「考えはしたのだが、あちらがお名を言わぬのに、それをするのも、なんだか不粋な気がしてなあ」  おれにはなかなかそういうことができないのだよ──  と博雅は言った。 「あのおり、簾を持ちあげて、月をごらんになったあのお方のお顔は今でも覚えているよ。そのまま、あのお方が月光の中へ泳ぎ出して天に昇っていったとしても、おれは少しも驚かなかったろうよ」  博雅は、庇《ひさし》越しに天の月を見やり、溜め息をついた。 「堀川で笛を吹いている時もなあ、あのお方の息が、おれの耳もとに聴こえるような気がしていたのだよ──」  笛を吹いている。  向こうに牛車が停まっている。  簾の向こうで、笛を聴きながら姫がひそやかに息を吸い、息を吐く。その呼吸の音までが博雅の耳には聴こえてくるようであった。 「おれの耳には、あのおりのあのお方の息の音がまだ残っているよ……」  博雅は、月から晴明に視線をもどした。 「それで──」  晴明が問うた。 「それで、とは?」 「この話、まだ終わりではないのだろう。その続きを聴かせろと言っているのさ」 「わかるのか」 「わかるさ。おまえは隠しごとのできぬ漢《おとこ》だからな」 「晴明よ、それはなんだかおれのことをばかだと言っているのではないか」  博雅は、わざと拗《す》ねたような言い方をしてみせた。 「言ってはおらん」 「ふふん」  博雅は、杯を口に運び、酒を口に含んでから、 「実はな、晴明よ」  軽く前に身を乗り出した。 「そのお方と、十二年ぶりに逢《お》うたのだ」 「ほほう──」 「それが、実は今夜なのだよ……」  博雅は言った。 「今宵はあまりに月が美しかったのでな。ここへ来る前に、笛を吹きながら堀川あたりまで行ってきたのだよ」  博雅は、自分で言って、自分でうなずいた。  博雅が自分の屋敷を出た時、すでに大気の中には梅雨明けの気配が満ちていた。  雲が割れて、空に月が覗いている。  雲が動けば、月が隠れ、また現れる。  夜の空気は、たっぷりと湿り気を含み、笛の音がよく通った。 「堀川の、あの橋のたもとまで行ったら、あの芍薬の姫のことなどが想い出されてなあ。しばらくそこで笛を吹いていたのさ」  ひとしきりそこで笛を吹き、ふと気がついたら、 「なんと、晴明よ、あの柳の下に牛車が停まっていたのだよ──」  博雅の声が、大きくなっている。 「なつかしくて、堀川まで行きはしたが、そういうことは今夜が初めてではないし、まさかまた、あのお方に逢《あ》えようなどとは、おれだって思ってもいなかったのだよ──」  博雅は、笛を唇にあてたまま、息を呑んだ。  牛車には、舎人がひとり、付いていた。  その顔に、見覚えがあった。  博雅の脳裏に浮かんだのは、 �まさか�  という言葉であった。  まさか、このようなことが──  そう思いながらも、いつの間にか、自然に博雅の足は、その牛車の方に向かっていた。  博雅は、牛車の前で立ち止まった。  半蔀《はじとみ》の車であった。 「博雅さま……」  簾の奧から、声がかかった。  あの、十二年前に聴いた姫の声であった。 「あなたなのですね」 「お久しゅうございます」  あの、細い声が言った。 「久しぶりになつかしい笛の音を耳にして、こちらまでやってまいりましたれば、やはり博雅さまがこれに──」 「まさか、わたしも、再びここであなたにお会いできるとは思っておりませんでした」 「あい変わらずに、美しい笛の音。聴いておりますと、心がほどけて月の光の中を天へ昇ってゆくような心地がいたします」 「あなたのお声も、わたしの覚えているままです」  博雅が言うと、微かな、溜め息とも笑い声ともつかない気配が、簾の内側から伝わってきた。 「十二年も経てば、女は変わります……」  低い声で、女はつぶやき、 「この世に、変わらぬものなど何ものもございません。人の心も……」  そう言った。 「あなたとは、もう、お目にかかることはないと思っておりました」 「わたくしもです、博雅さま……」  女の声が言った。  博雅が、近くから見れば、この車は確かに十二年前と同じものであった。簾こそ新しくなっているが、車のかたちにも、屋根の色にも、覚えがある。古びて、所どころ塗りの剥《は》げ落ちている場所もあるが、きちんと手入れがされていたらしい。  舎人の顔も、十二年分歳をとってはいるが、見覚えがあった。 「今宵、笛の音が聴こえねば、本当に二度とお会いすることができぬところでした」 「わたしのこの笛が、あなたとひき会わせてくれたのですね」 「はい」  博雅は、女のうなずく声を聴いてから、笛をまた唇にあてた。  葉双《はふたつ》──  これが、博雅の笛の名である。  吹きはじめた。  なめらかな音色が滑り出てきた。  繊細な音であった。  金糸銀糸が、からみ合いながら伸びてゆく──その糸に、青い燐光を帯びた幾匹もの蝶が、月光の中で戯れているようであった。  一曲が終わると、次の曲を。  その曲が終わると、また次の曲を。  博雅は、恍惚となって笛を吹き続けた。  博雅の両眼から、ひとすじ、ふたすじ、涙が頬を伝っている。  博雅が葉双を吹くのをやめても、周囲の大気はまだその音を含んで揺れ合っているようであった。  やわらかな沈黙の中で、月の光ばかりが天からこぼれ落ちてくる。  空気の粒子のひとつぶずつまでもが、博雅の笛に感応して、まだ微妙の色を帯びているようであった。  低い、嗚咽《おえつ》とも啜《すす》り泣きともつかぬ声が簾の内側から洩れていた。 「どうなされました?」  博雅が声を掛けると、その忍び泣きが止んだ。 「何か、哀しいことでもおありになったのですか」 「何でもございません」  女の声が言った。  わずかに沈黙があり、その沈黙をとりつくろうように、女がまた口を開いた。 「博雅さまは、今宵どちらかへお出かけだったのですか」 「いえ、これから土御門《つちみかど》方面へゆくつもりでした」 「土御門と言えば──安倍晴明さまのお屋敷でございますか」 「よくおわかりですね」 「博雅さま、晴明さま、お仲のよろしいことはうかがっております」 「そうでしたか」  博雅がうなずいた後、またしばらく沈黙してから、 「博雅さま、ひとつお願いがございます」  女の声が言った。 「何でしょう」 「安倍晴明さまは、方術を使い、式神を操って、様々の不思議のことを行うと聞いておりますが、まことでございましょうか」 「そういう噂をお耳にしているのであれば、おそらくそうだということなのでしょう」  博雅は控えめな言い方をした。  晴明が、時おり見せる方術には、博雅も何度となく驚かされている。しかし、それは、ここで言うべきものではなかった。 「まことなのですね」 「ええ、まあ──」  博雅の答えは、いくらかぎこちない。  女は、何か心を決めかねているように沈黙し、やがて、また口を開いた。 「このたび、五日後の文月《ふづき》の七日に、相撲《すまい》の節会《せちえ》がありますが、その時、真髪成村《まかみのなりむら》さまと海恒世《あまのつねよ》さまの取り組みのあることは御存知でいらっしゃいますか」 「はい」  博雅はうなずいた。  真髪成村は、左の最手《ほて》である。  海恒世は、右の最手である。  最手というのは、当時の相撲の最高位であり、大関にあたる。今日では、横綱が最高位であるが、横綱は大関よりも後に生まれた呼び名であり、当初は位を表す言葉ではなく、位とは別の称号のようなものであった。  この、左右の最手である真髪成村と、海恒世が、今度の相撲の節会で闘うことは、もちろん博雅も知っている。 「今、宮中では、公達たちの間でも、どちらが勝つのかと、たいそうな評判になっていますよ」 「そうですか……」 「それが、何か?」 「ええ──」  女が、口ごもった。  やがて、覚悟を決めたように女は言った。 「安倍晴明さまにお願い申しあげて、どちらか一方を負けさせることができましょうか──」 「───」  博雅は一瞬言葉を失った。  いったいどういうことをこの女が言っているのか、すぐにはそれがわからなかったからである。 「安倍晴明さまの方術をもって、右の最手である、海恒世さまが負けるようにしていただくことはできませぬか……」  もう一度、女が言った。 「そ、それは……」  博雅は、女の問いに答えることができなかった。  と──  簾の下に、白い指が現れた。  その指が、簾の下部をつまむと、するすると簾が下から上に持ち上がっていった。  柳襲の、女の姿がそこに現れた。  あの薫衣香の匂いが濃くなった。  あの、十二年ぶりの女の顔。  女は、月ではなく、正面から、真っ直《すぐ》に博雅の顔を見つめていた。  月明りの中に、女の顔が見えている。  十二年という歳月がその顔に刻まれていた。  頬の肉がその重さで落ち、唇の両端のあたりに、頬肉が下がってできた皺がある。  顎の下にも、いくらか肉が溜まっていた。  眼の周囲にも、額にも、月明りにも見てとれるほどの皺がある。身体全体にも、肉《しし》が乗っているようであった。  顔も、以前よりは肉が付いているにもかかわらず、やつれて見えた。  博雅は、一瞬、うろたえた。  女の顔に降り積もった、十二年の歳月を見たからではない。それを隠そうとしない女の強い意志に、思わずたじろいだのである。  やんごとない身分の女が、月夜とはいえ、こうして、男の前であからさまに素顔をさらすことなど、めったにないことであった。  十五、六歳にもなれば、もう、女は娶《めと》られることが普通であった時代である。  それだけに、女の深い覚悟が見てとれた。  博雅は、何と答えてよいのかわからなかった。 �晴明に頼んでやろう�  そう言えるものではない。  かといって、それはできぬとも、この女には言えなかった。  博雅を見つめているすがるような女の眸《め》の中に、何とも言えない深い哀しみの色が点《とも》り、それが、瞳の中に溜まってゆく。  博雅は、答えることができなかった。  心がふたつに引き裂かれている。 �何故ですか�  問うて理由を言わせておきながら、やはりそれはできぬという返事もできるわけはなかった。  やるもやらぬも、それを決めるのは博雅ではなく、安倍晴明本人である。しかし、頼んだとて、晴明がそのような呪法をすることを、受けるわけもなかった。  博雅は沈黙するしかない。 「もうしわけございませんでした」  ふいに、女が言った。 「お返事のできる質問ではございませんでした……」  淋し気な微笑が、女の口元に浮いた。 「ただいまのこと、皆、お忘れ下さいまし」  女が頭を下げるのと同時に、するすると簾が降りてきて、女の姿を隠してしまった。  博雅は、口を開いたが、言葉が出てこない。  ごとり、  と、十二年前のように、牛車が動き出した。 「もし……」  博雅は言った。  しかし、牛車は止まらなかった。 「ほんに、よい笛でござりましたなあ」  去ってゆく牛車の中から、静かに女の声が響いてきた。  博雅は、月光の中に立ち尽くした。 「なるほど、そういうことであったかよ」  晴明は言った。 「おれには、その時、あのお方に掛けてやる言葉がなくてなあ。今、酒を飲みながら思い出しても、胸が痛んで苦しくなってしまうのだよ」  博雅は眼を伏せ、持っていた杯に視線を落とした。酒の入ったその杯を、口に運びもせずに、博雅は濡れ縁にもどした。 「でもなあ、晴明よ。おまえに、海恒世殿が負けるよう、方術をもってなんとかしてくれと頼めるわけもなかろう」 「それはそうだ」  晴明はうなずき、 「ま、事情にもよるが、できぬ相談だな」  はっきり言った。 「何だかはわからないが、よほどの御事情があったのだろう」 「うむ」 「おれは、あのお方のお悩みにどうすることもしてさしあげられなかったのだなあ……」 「博雅よ。そのお方もよくわかっているさ。自分がどのような無理なことを頼んだのかをな──」 「うむ」 「だから、そのお方は御自分からそこを立ち去られたのさ」 「よくわかっているよ、晴明。だからこそ、御自分から身をひかれたあのお方の心根を想うと、胸が苦しくなってしまうのだよ」  博雅は切ない溜め息をついた。 「晴明よ、おれの中には、なんだか妙なものが棲《す》んでいるようなのだよ」 「ほう」 「たとえ、それはできぬこと、人の道にはずれるようなことであったとしても、あのお方のためなら何でもしてさしあげたいという気持ちも、おれの中にはあるようなのだ……」 「博雅よ、おまえ、そのお方に心を持ってゆかれたか──」 「そうかもしれぬなあ」  博雅は、杯を持ちあげ、酒を飲んだ。 「十二年前に比べて、お歳をとられたという以上に、おやつれになっていたよ」 「───」 「三十路《みそじ》も半ばを越えておられたと思うが、おれにはそのお歳のことより、そのおやつれの方が気にかかっているのだよ」 「相撲の節会について、言っておられたのだったな」 「ああ。海恒世殿と真髪成村殿との一番で、海恒世殿を負けさせたいとな」 「その勝負に、何か裏でもあるのか?」 「おれには、見当もつかないよ、晴明──」 「この一番、たしか権中納言|藤原済時《ふじわらのなりとき》殿が帝《みかど》に奏上して決まったものだったな」 「うむ。済時殿は、恒世殿を可愛がっておられたからなあ」 「海恒世殿と真髪成村殿が立ち合われるのは、これが初めてだったな」 「ああ」 「真髪成村殿、相撲人《すまいびと》としては、もうかなりのお歳ではなかったか?」 「四十路《よそじ》を越えておられるはずだ」 「海恒世殿は?」 「まだ、三十路にもなってはおらぬだろう」 「ふうむ」 「宮中での噂では、若い恒世殿の勝ちと考えるむきが多い」 「それはそうだろう」 「しかし、成村殿に勝たせたいと思っている人間もまた、多くいるのだよ」 「勝つであろうというのと、勝たせたいというのとでは意味が違うぞ」 「そうさ。成村殿を勝たせたいと言っている連中でも、どちらが勝つか負けるかという話では、勝ちは恒世殿であろうと考えているわけだからなあ──」 「さもあろうよ」 「成村殿の身体も、以前に比べれば、張りも艶《つや》もなくなっているが、しかしまだまだ、若い連中を、稽古ではおもいきり投げ飛ばしているというぞ」 「しかし、その若い連中というのは、最手ではないのだろう?」 「うむ」 「しかし、博雅よ。おまえが堀川で出会ったお方だが、いったい、どうして海恒世殿を負けさせたいのだろうな」 「真髪成村殿の御身内ででもあるのだろうかなあ」 「さあて……」 「取り組みの行方も気にかかるが、あのお方のことが、おれは今、どうも心にひっかかっているのだ」  博雅は、また溜め息をついた。 「お美しかったか?」  晴明は訊いた。 「美しい?」 「十二年前と比べてどうであった?」 「それならば言ったではないか」 「どのように?」 「その肌であるとか、皺があるとかないとかで言うなら、それは十二年前の方が美しかったろう。しかし、今でもあのお方は充分にお美しかったよ。だが、おれが言ったのはそういうことではないのだ」 「何なのだ?」 「よいか、晴明よ」  博雅は、居ずまいを正すように晴明を正面から見やり、 「美しかったかどうかではないのだ。十二年というお歳の刻まれた今のあのお方のほうが、おれにはいっそう愛しく思われるのだよ──」  凜とした声で言った。  博雅は、晴明の顔から、自分の膝先に視線を落とした。  そこに、酒の入った杯が置かれている。その杯を手に取り、博雅は中の酒を飲み干した。空になった杯を持ったまま、博雅は夜の庭に視線を移した。 「何であろうかなあ、この心もちは……」  博雅はつぶやいた。 「これは、おそらく、きっとおれも同じものだからではないか。おれもまた、あのお方と同じ舟に乗ったものなのだ」 「ほう?」 「同じ舟に乗って、時の中を運ばれてゆくものどうしだということさ。おれの身体も、声も、昔のままではない。おれもまた、舟と共に流されて、老い、衰えてゆくものなのだよ──」 「しかし、博雅よ、おかしいではないか」 「何がだ?」 「おまえの言った意味で言うのなら、生命あるもの全てが、皆、同じ舟に乗ったものなのではないのか。そのお方と、おまえだけではない。誰もが、同じ舟に乗って時を流されてゆくものなのではないか──」 「む」 「どうなのだ」 「どうと言われても……」  博雅は口ごもり、 「……おまえの言うこともわかるが、晴明よ、このおれは、とにかくそうとしか言いようがないのだよ──」  そう言った。 「ふうん」 「たとえば、晴明よ。肌を合わせて、なじんだお方の身体が衰えてゆくのは哀しかろう」 「うむ」 「しかし、衰えてゆくからこそ、愛しいのではないか。衰えてゆく肉が哀しいからこそ、人は、それがいっそういとおしくなってしまうのではないか」 「───」 「なんだか、このごろは、しきりとそんな気がしてならぬのだ……」 「そうか」  晴明はうなずき、 「おまえの言うことは、わかる……」  ぽつりと言った。 「そうか、わかるか」 「しかし、博雅よ、どうするつもりなのだ」 「どうするとは──」 「そのお方を捜すか?」  問われた博雅は、杯を持ったまま、沈黙した。 「そのお方をお捜しして、いま一度、逢うてみるつもりか──」 「わからん」  博雅は、答えて、杯に酒を満たし、それを飲み干した。 「今は、よくわからぬ」  小さい声で言って、博雅は、空になった杯を、濡れ縁の上に置いた。  ことり、と小さな音がした。  月光の降りてくる草叢の中で夏の虫が鳴いていた。 [#改ページ]    巻ノ二 相撲節会     一 『今昔物語集』によれば、海恒世《あまのつねよ》は、丹後国の相撲人《すまいびと》であった。  この恒世が、ぶらりと散歩に出たのは、ある夏の日のことである。  下駄ばきで、大きな身体に帷《ゆかた》一枚をひっかけ、腰帯を無造作に巻いただけの姿であった。  小童《こわらわ》ひとりを、供の者として連れている。  恒世の住んでいる家の近くに、一本の川が流れていた。古い川であり、底も見えないほど青い淵が幾つもあった  持ってきたのは、|※[#「木+叉」、unicode6748]杖《またぶりづえ》が一本だけである。  そぞろ歩いているうちに、川に出た。  岸に沿って涼みながら草を踏んでゆく。  陽は大きく西に傾いており、今にも山の端《は》に没しそうである。  恒世は、ひときわ大きな淵の前で立ち止まった。  淵の周囲の川岸には、歳経た杉の大樹が何本も生え、木陰をつくり、枝先を水面に垂らしている。  淵の水は、重そうにゆるゆると渦を巻き、青あおとよどんで、底まで見えぬほど深い。  柳の根元には、葦《あし》や薦《こも》などが生《お》い繁り、これがまたなかなかに不気味であった。  と──  恒世はそこで不思議なものを眼にした。  淵の向こう岸から、三丈(約九メートル)ほど流れに入ったあたりの水面が、急にもっこりと盛りあがったのである。その盛りあがりが、ゆるい流れを渡って、恒世の方に近づいてくる。水中に子供がいて、頭を水面に出さずに泳いでくるようにも見える。 「はて──」  恒世は川岸に突っ立って、それを眺めている。  こちらの川岸に近づいてくると、その水の盛りあがりの中から、大きな蛇の頭が現れた。  眼は緑色に光り、赤い舌をその口からちろちろと踊らせている。 「あれ」  小童は悲鳴をあげた。 「大蛇でござります。恒世さま、お逃げ下されませ。あれは、わたしたちをとって喰おうとしております」 「ほう、それはおもしろい」  海恒世は平然と近づいてくる大蛇を眺めている。 「恒世さま!」  小童は、叫ぶと、ついにたまらず逃げ出していた。  流れの中ほどで動くのをやめ、大蛇はその緑色の眼で恒世を眺めた。  恒世を値踏みするような眼であった。 「ほう、あの蛇め、このおれをどれほどのものかと量《はか》っているのか」  恒世は、大蛇としばらく睨《にら》み合った。  頭の大きさからして、相当な大きさの蛇であろうと思われた。  やがて、眼を小さく光らせたかと思うと、蛇は、頭を水中に潜らせた。水の盛りあがりが向こう岸へ向かって動いてゆく。対岸の葦の中へ、その水の盛りあがりが消えた。 「蛇め、逃げたか」  恒世がそう思っていると、また水の表面が盛りあがり、再びそれが近づいてくる。流れを渡り、水の中から姿を現したものを見れば、なんとそれは蛇の頭ではなく尾であった。 「さて、どうするつもりか」  恒世が眺めていると、蛇の尾はこちらの岸に上がって、恒世の右脚に、くるくると巻きついてきた。 「さては、おれを川に引き込むつもりだな」  強い力で、蛇が恒世の右脚を引いてくる。  恒世が足を踏ん張ると、さらに強い力でぐいぐいと引いてきた。 「むう」  恒世がこらえると、履《は》いていた下駄の歯がふたつとも折れてしまった。  凄い力である。 「なかなかのものではないか」  蛇の引く力はいよいよ強くなって、こらえている恒世の顔が赤くふくれあがった。我慢しているうちに、土の中にめりめりと足が五、六寸も沈んだ。  そのうちに──  ぶっつりという縄の切れるような感触があって、脚を引いていた力が急になくなった。 「さては切れたかよ」  すると、川の流れの中に夥《おびただ》しい量の血が浮いてきた。  恒世が足を引くと、ずるずると蛇の尾が上がってきた。見れば、それが中ほどからちぎれている。  巻きついた尾をほどき、青黒く痣《あざ》のできた脚を水で洗ったが、蛇の巻きついた跡は消えなかった。  そのうちに、逃げた小童に話を聴いた従者たちが駆けつけてきた。 「大丈夫でござりますか」  声をかけてくる従者たちに、恒世は、 「おう」  と涼しく答えて、 「酒を持ってこい」  従者のひとりに酒を持ってこさせ、蛇の尾の跡をその酒で洗った。 「これは凄い」 「なんという大蛇だ」  従者たちは、恒世が引きあげた、川岸の蛇の尾を見て声をあげている。  尾の切り口の太さを計らせたら、一尺ほどもあった。 「誰か、頭の方を見てまいれ」  人を向こう岸にやって捜させたところ、一本の柳の大木に、蛇が首を何重にも巻きつけたまま絶命しているのが見つかった。恒世のただならぬ力の強さに、大蛇はこのようにして対抗しようとしたのである。しかし、恒世の強力が蛇の力に勝《まさ》ったため、蛇の胴は真ん中からちぎれてしまったのである。 �我身の切るるも不知引《しらでひき》けむ蛇《へみ》の心は奇異《あさまし》き事|也《なり》かし�  と、『今昔物語集』には記されている。  しばらくたってから、あの時の蛇の力はどのくらいであったかを試してみようということになった。  ではいったい人で言えば何人分の力になるのかということになって、大きな太い縄を作り、それを恒世の脚に巻きつけ、十人ほどの男たちに引かせたが、 「いや、こんなものではなかったなあ」  恒世はびくとも動かない。  それではと、三人加え、五人加え、さらに十人加えて引かせてみたが、 「まだまだ、こんなものではなかったぞ」  恒世は平気である。  ついには人を六十人にして引かせてみたところ、 「うむ、まあ、このくらいであったか」  ようやく恒世はうなずいた。  このことから察するに、海恒世の力は百人力はあったのではないかと、『今昔物語集』は伝えている。  この海恒世の相手をすることになっている真髪成村《まかみのなりむら》にも、幾つかの逸話が残されている。 『今昔物語集』『宇治拾遺物語』によれば、真髪成村は常陸国の人であるとも、陸奥国《みちのくのくに》の人であったとも言われている。  同じく相撲人であった真髪|為村《ためむら》の父で、経則《つねのり》の祖父である。  相撲|節会《せちえ》が行われたある年、諸国の相撲人たちが京に集まっていたおりのことである。  相撲節会は、毎年|文月《ふづき》に行われる年中行事のひとつであり、帝《みかど》がごらんになる天覧相撲であった。  節会の前々日に内取《うちとり》があり、当日に召合《めしあわせ》(左右対抗試合)、翌日には抜出《ぬきで》(選抜試合)と追相撲(勝ち抜き試合)が行われた。  およそ四日間にわたって開かれる行事であり、相撲人たちは、節会の一月《ひとつき》前には京に上り、左右の近衛府《このえふ》に分属して、当日まで稽古にはげむことになる。  真髪成村も、他の相撲人とともに京に上って近衛府に起居しながら当日を待っていた。  真夏であり、毎日暑い日が続いている。  ある日── 「こう暑くては、稽古で流す前に汗が出て、身体も干からびてしまうぞ」 「朱雀門《すざくもん》あたりに涼みにでもゆこうではないか」  そう言い出す者があって、真髪成村を中心に、何人かの相撲人が連れだって朱雀門まで出かけてゆくことになった  朱雀門は、京の都の中心を南北に走る朱雀大路の正面にあった。  七間五戸。  左の門柱から右の門柱までの幅が約十三メートル。扉が五つ。  全体の幅は十九間(三十五メートル)で、高さは七十尺(二十一メートル)、二層になっている巨大な重閣門であった。  その下には、濃い影ができている。  朱雀大路は、道幅が二十八丈(八十四メートル)──風がよく通る場所であった。  風に吹かれながら、ひとしきりそこの影で涼んでから、宿所に帰るため、一同は歩き出した。  二条大路を東へゆき、美福門《びふくもん》のところで右に折れて壬生《みぶ》大路を南へ下った。  右側が大学寮である。  歩き出してみれば、また暑くなり、汗がふき出てくる。  皆、水干装束《すいかんしようぞく》で、純《もとおし》を解いているため、襟元《えりもと》は開けっ放しである。烏帽子《えぼし》の冠《かむ》り方もだらしがない。  さすがに、最手《ほて》の自覚のある成村は、きちんとしているが、身体の大きな相撲人たちが、そのような格好でぞろぞろと歩いてゆく姿はいささかみっともない。  大学寮の東門の前にさしかかると、その門の下で、やはり学生たちも涼んでいる。  そこへ、相撲人たちが、 「いや、本当に暑いのう」 「これはたまらぬわい」  などと言いながら通りがかった。  暑い暑いと通り過ぎてゆく相撲人たちに向かって、 「鳴《なり》高し。鳴制せん」  うるさいぞ、静かにしろ──と、学生たちのなかから声がかかった。 「なんだと」  相撲人の中から、これに応戦する者が出てくると、 「おまえたちのような、むさくるしい人間を通すわけにはいかん」  学生たちが、ぞろぞろと壬生大路の真ん中へ出てきて、相撲人の集団の前にたちふさがった。  この大学というのは、官吏養成のための、最高学府である。官位が上の家でなければ、入学することもできない。そこの学生であるから、現代風に言うならエリート中のエリートである。  本朝最高の頭脳集団といっていい。  腕力や体力、その肉体的な能力によってここまでのしあがってきた相撲人たちとは対照的な存在である。 「何を言うか」 「こやつら、やるか」  暑さで、双方気が立っており、剣呑な雰囲気となった。 「踏みつけて通ってやろうか──」  たちふさがる彼らを無理に押し破って通ってもいいが、しかし、学生の中には身分のある家の者も多いし、節会の前に騒ぎになってもまずい。 「まあまあ──」  と成村が相撲人たちをなだめて、帰ろうとしたところへ、 「逃ぐるか」  その背に声が浴びせられた。  見れば、それは歳若い学生であり、背が低かったが、冠や表衣《うえのきぬ》などは他の者たちより良いものを身につけていた。  その学生が、硬い、射るような眼で成村たちを睨んでいる。 「相撲人が、口ほどにもない」  その若い学生が言った。  これには相撲人たちも色めきたったが、成村が身をもって彼らを押しとどめ、 「去来々々《いざいざ》返りなむ」  一同を連れて、朱雀門まで引き返した。  だが、他の者はおさまらない。 「あんな小僧ども、ひねり潰《つぶ》してしまえばいいではありませんか」 「何故、我慢なさるのですか」  相撲人たちは、口々に成村に言った。 「まあ、待て」  成村は一同を静めて、 「やつらも、この暑さで気がたっていたのだろうよ」  そう言った。 「しかし、小僧どものくせに生意気ではありませんか。なんで、我々が引き返さねばならぬのですか」 「その、引き返したところが、肝心なのだ」  成村は言った。 「何が肝心なのですか」 「一度は引き返した──これで、次に何か事があったとしても、我らも世間へのもうし開きがたつというものではないか」 「次?」 「うむ。今日のところは別の道を通って引き返すが、明日また朱雀門まで出かけてきて、またあの壬生大路を通ってやろうではないか。そこでまた、あの学生たちが何か言ってくるようなら、その時こそ、こらしめてやろうではないか」 「おう、それはおもしろい」  相撲人たちが手を打った。 「わたしは、成村殿を睨んでいた、あの若い学生が我慢なりません」 「あの、背の低い、なかなかの面構えをしていた男だな」 「そうです」 「若い頃は、世の中のことが思うにまかせず、皆あのような顔つきをするものだ」  成村は、自分の若い頃のことを思い出しているような表情で言った。 「成村殿は、あの若僧の味方をなさるのですか──」 「いや、そうではない」  と成村は身を乗り出し、 「あの若僧にちょっと興味が湧いたのでな。明日、また奴らがちょっかいをかけてくるなら、ひとつ試してみようと思っているのさ」  楽しそうに言った。 「何を試すのですか」 「あの若僧が、どれだけやれるのかをだ」 「どういうことでしょう?」 「おまえでよいか」 「わたしで?」 「おまえ、またあの連中がちょっかいをかけてきたら、他の者には眼もくれず、あの若いのの相手をしてやれ。本気でやってしまってもいいぞ」 「よろしいのですか」 「かまわん。あの男の尻でもおもいっきり蹴ってやれ」 「わかりました」  うなずいた男は、いずれは脇《わき》にもなろうかという力自慢の相撲人である。  最手が一番、二番目の階級が脇であり、これはかなりの実力者である。  さて、その翌日──  昨日と同様に、成村を中心に相撲人たちは朱雀門へと向かった。  昨日の話を聞きつけたのか、おれもゆこう、我もゆくぞと言い出す者があって、人数は倍に増えている。  朱雀門で時間を潰して、一同連れだち、昨日と同様に美福門の前から壬生大路に入ってみれば、東門の前あたりに、これも昨日の倍近くに増えた学生たちがたむろしていて、成村たちを見かけるや、たちまち道を塞《ふさ》いで、 「鳴高し。鳴制せん」  と叫んでいる。  その先頭に立っているのは、あの若い学生である。  大学寮の東門の前で、相撲人と学生たちの集団が睨み合った。 �よし、行け�  成村が、眼くばせして合図すると、件《くだん》の相撲人がたちまちその若い学生に駆け寄って、右足でおもいきり蹴りを入れた。  若い学生が咄嗟《とつさ》に身を沈めてその蹴りをかわすと、空を蹴った足は高くあがり、突っかかっていった相撲人は、仰様《のけざま》に倒れ込んだ。  この若い学生は、宙に持ちあがった相撲人の右足を右手でひょいとひっつかみ、軽々と上に持ちあげた。若い学生は、この相撲人の身体を、まるで棒でも振り回すようにしながら相撲人たちに打ちかかってきた。  たちまち、数人の相撲人が薙《な》ぎ倒されてしまった。 「おう」 「これはたまらぬ」  何人かの相撲人が、走って逃げ出した。 「逃げるか」  若い学生が、逃げてゆく相撲人たちに向かって、手にした相撲人の身体を投げつければ、その身体は逃げてゆく相撲人の頭上を越え、二、三丈も宙を飛んで、その先の地面に叩きつけられた。 �其の提《ひさげ》たる相撲を投《なげ》ければ、振めきて二三丈|許《ばかり》被投《なげられ》て倒れ臥にけり。身砕けて可起上《おきあがるべく》も非《あら》ず成《なり》ぬ�  地に落ちた相撲人の骨は砕け、眼を開いたまま悶絶している。  人間離れした怪力であった。 「なんとも凄まじい力だなあ」  成村は、半分あきれてこれを眺めていた。なかなかやるとは思っていたが、まさかこれほどとは成村も考えてはいなかったのである。  周囲では、相撲人と学生の乱闘が始まっている。  当然相撲人の方が優勢なのだが、学生たちの数の方がずっと多い。  最初に件の若い学生を蹴り倒して見せれば、学生たちもおとなしくなり、大きな騒ぎにもなるまいと思っていたのだが、まるで逆効果となってしまった。  最初は、生意気な学生たちを、暑気払いにでもこらしめてやろうと軽く考えていたのが、相撲人たちも本気になりかけている。そうなったら、骨が折れたの耳がとれたのというだけでなく、学生たちに死人が出るかもしれない。 「おい」  成村は、近くにいた相撲人に言いつけ、投げ飛ばされた相撲人を担がせると、 「ひとまず退《ひ》けい」  相撲人たちに声をかけた。  そこへ、 「おまえが大将か」  成村に声をかけてきた者があった。  件の若い学生であった。 「おまえか」  成村はその学生と向かいあった。  学生は怖い眼つきで成村を睨んでいる。 「もったいない──」  思わず、成村はその学生に言った。 「なに!?」 「どうだ、学生などやめて、相撲人にならぬか」 「なんだと」 「おまえには、その方が合っている」 「ならば、試してみよう」 「何を試す」 「おまえが、どのくらい強いかをだ。おまえがおれに勝つのなら考えてもいい」  言うなり、若い学生が頭から突っ込んできた。  それを胸で受けると、岩と岩がぶつかるような音がして、成村の履いていた沓《くつ》の踵《かかと》が全て土の中にめり込んでいた。学生が、なおもぐいぐいと押してくると、こらえている成村の足は、ずぶりずぶりと足首近くまで地面の中に潜り込んでしまった。  これは、本気にならねばとても勝てそうにない。  しかし、ここでこの学生とむきになってやりあってしまったら、まず自分の身体も無事にはすむまい。怪我をしたら、召合《めしあわせ》の取り組みに障《さわ》りがある。 「おい」  成村は、学生に声をかけた。 「相撲節会が終わったら、翌日にまたここで会おう。その時にこの続きをしようではないか」  成村は、ぐいと学生を押しもどし、距離をとってから、走って逃げ出した。 「待て──」  件の学生が、後を追ってくる。  成村は、朱雀門の方に逃げ、近くにあった土塀に走り寄って、これを飛び越えた。  地を踏みきった右足がわずかに身体より遅れて土塀を越えてゆくところへ、追いすがった学生が、 「逃《の》がすか」  これを右手で掴《つか》んだ。  掴んだ場所が、ちょうど成村が履いていた沓の踵であった。沓も踵も、刀で切ったように、すっぱりと、肉ごと毟《むし》り取られていた。 �片足の少し遅く超えければ、踵《きびす》を沓履乍捕《くつはきながらとらへ》たりければ、沓の踵に足の皮を取《とり》て加へて、沓をも踵をも刀を以《もつ》て切りたる様に引切《ひききり》て取《とり》てけり�  いや、この世にはなんとも凄まじい大力の持ち主がいるものよ──  土塀の向こうで、踵から血のふき出ている右足をさすりながら、成村はそう嘆息したという。  足の怪我をこらえ、なんとか節会の勝負に勝利をしたその翌日、成村は約束した場所まで出かけてゆき、一日待ったが、件の若い学生はそこに姿を現さなかった。  その日はおとなしく宿所へもどり、郷里《くに》へ帰ったのだが、成村もなかなかあきらめきれない。  翌年の相撲節会のおり、あらためて人をやって捜させたのだが、あの学生の行方はとうとうわからぬままとなった。 「いや、もしもあの学生が相撲人となっておりましたら、古今に並ぶ者のない最手となっていたことでしょう」  成村は、後に、そのように語っていたということであった。  さて──  この真髪成村と海恒世が勝負をすることになったのには、藤原済時《ふじわらのなりとき》の影響が大きい。     二  相撲は、古来より神事として伝えられてきた。  古くは、貴人の死にあたって、相撲人である健児《ちからびと》が、死者への鎮魂儀礼のひとつとして、闘ってきたとも考えられている。  これを強く示唆するように、日本各地の古墳や遺跡から、力士|埴輪《はにわ》が出土している。 『日本書記』によれば、垂仁帝の七年の七月七日に、当麻蹶速《たいまのけはや》と野見宿禰《のみのすくね》が闘い、野見宿禰が当麻蹶速を破ってこれに勝っている。これが節会相撲の始まりであるとされているが、相撲節会という宮廷儀式となってゆくのは、天平六年(七三四)あたりからである。平安時代の中期には、天皇が観覧する宮中の年中行事のひとつとなっており、毎年七月にこの節会相撲が開催された。  この頃には、相撲節会は、神事であるとともに、貴族たちの娯楽としての要素も強くなっており、観戦にあたっては、食事や酒なども出され、試合後は宴なども催されるようになっている。  各地の相撲人を京に召して、左方、右方──左右の近衛府に分け、毎年七月に、左方と右方の相撲人をそれぞれ闘わせた。  左方、右方の相撲人たちには、それぞれ方人《かたうど》と呼ばれる応援者たちがつき、この方人に対して、さらに念人《おもいびと》と呼ばれるこれを支持する貴族たちがついた。  節会の初日に、召合と呼ばれる左右の勝負が、十七番から二十番行われ、翌日には、前日に勝負をした相撲人の中から優秀な者を選び出して、彼らを試合《たたか》わせた。  これが、抜出《ぬきで》と呼ばれる勝負である。  相撲節の当日は、まず、陰陽師《おんみようじ》が相撲人たちを率いて呪文を唱えながら反閇《へんばい》をする。  陰陽師が笏《しやく》などを持ち、竜樹菩薩《りゆうじゆぼさつ》、伏羲《ふくぎ》、玉女《ぎよくじよ》らを勧請《かんじよう》し、天門呪、地戸呪、玉女呪、刀禁呪、四縦五横呪を誦し、遁甲《とんこう》の九星に謹請しながら、禹歩《うふ》を行い、反閇呪を唱える。続いて楽所《がくしよ》の大夫が楽人《がくにん》を率いて乱声《らんじよう》を奏しながら参入してくる──  この儀式がすんでからはじめて帝が姿を現して、取り組みが始まるのである。  相撲人たちは、犢鼻褌《たふさぎ》に紐小刀《ひもこがたな》を差し、狩衣《かりぎぬ》を身にまとい、頭には烏帽子を冠り、素足という姿で登場し、取り組むおりに、狩衣を脱ぎ、烏帽子をとって、これを円座《わらざ》の上に置いてから相撲をとった。  土俵は、この当時、まだない。  藤原済時は、海恒世のいる右方、右近衛府の大将であった。  この藤原済時が、海恒世を贔屓《ひいき》にして可愛がっていたのである。 「いかがですか、今度の相撲節で、海恒世と真髪成村を抜出の勝負で闘わせてみては──」  済時は、帝にそう言った。 「いや、そうはいっても、これは初めてのことではないか」  帝は困ったように済時を見やった。 「いえ、左の最手《ほて》と右の最手とが闘うのは、何もこれが初めてではありませぬ」 「わかっておる。初めてと言うたは、そのことではない。海恒世と真髪成村が闘うのが、初めてであると言っているのだ」 「初めてだからよいのではありませんか」 「しかし、ふたりの歳を考えてみよ──」  海恒世が、やっと三十路《みそじ》になったかどうかという齢《よわい》であり、真髪成村は、じきに五十歳に手が届こうかという齢であった。  歳の差が二十ほどもある。  成村は、村上天皇の時にはもう相撲を取っており、恒世は村上天皇の御代《みよ》の末頃から取りはじめた相撲人である。このふたりが、どういうわけかこれまで一番も相撲を取ったことがなかった。  はじめの頃に取り組みがなかったのは偶然であり、ふたりが最手を務めるようになってからは、これまでになかったことをやって、今の御代に何かの障りがあってもよくないという理由から、ふたりの取り組みは、これまで実現しなかったのである。  それでもふたりの取り組みの話は、これまで一度も出なかったわけではない。何度かそういう話も持ちあがりかけたことはあったのだが、ふたりの年齢差を考えて、関係者がその取り組みを避けてきたのである。  どう考えてみても、若い恒世が圧倒的に有利であり、真髪成村が不利であるという事実は否めない。 「それにしても、そなた、以前は真髪成村を贔屓にしていたのではなかったか」  帝が言ったのは本当のことである。  藤原済時は、何年か前までは成村を贔屓にしていた。それが、最近、海恒世を贔屓にするようになったのである。 「今さら、成村に恥をかかせることもあるまいに……」  帝は言った。 「まるで、成村が負けると決まっているような仰せでございますが、必ずしもそうとは限りますまい」 「ほう?」 「衰えたりとはいえ、真髪成村の大力は古今無双。まだ、海恒世の敵《かな》うところではありませぬ」 「う、うむ」 「身体も、成村の方が恒世より大きゅうござります。恒世はたしかに若くはございますが、このような勝負こそ、老練な手管を持っている成村が技が勝つこともあるのではありませぬか──」 「うむ」 「左の最手の成村、右の最手の恒世、このふたりの勝負、ぜひとも御覧になりたいとはおもいませぬのか」 「それは、見たいに決まっておるではないか──」 「ならば、よろしいではありませんか」  済時は声を大きくし、 「このふたりが闘えば後の代の語り草であり、もしふたりの取り組みをここであきらめてしまったら、どうして闘わせなかったのかと、末代までも言われてしまうことになりますぞ」 「よし、わかった」  ついに帝を説得してしまったのである。  真髪成村について、『今昔物語集』は、 �大《おほ》きさ、力、敢《あへ》て並ぶ者無し�  このように記している。  偉丈夫で、腕力にかけては誰も敵う者がない。  海恒世については、 �勢《せい》は成村には少劣《すこしおとり》たれども、取手《とりて》の極《きはめ》たる上手《じやうず》にて有《あり》ける也《なり》�  と、ある。  体格こそ、わずかに成村より劣るものの、恒世は技が実にたくみであった。  力の成村に対して、技師《わざし》の恒世が挑むという図式が、このたびの相撲節におけるふたりの対決の背景にある。  しかし、図式は図式であり、海恒世とて、尋常の力の持ち主ではない。  恒世と力競べをした大蛇の胴がふたつにちぎれてしまった逸話はすでに紹介した。  このふたりの取り組みは、宮中でも様々に噂されたが、海恒世の勝ちというのが、多くの殿上人たちの意見であった。  これは、源博雅《みなもとのひろまさ》が安倍晴明《あべのせいめい》に言った通りである。  どちらが勝っても、どちらが負けても、たいへんに気の毒の結果になるのではないか。 �勝負《しようぶ》の間《あひだ》、誰《たれ》が為《ため》にも極《いみじ》く糸惜《いとほし》かりぬべし�  宮中の者たちは、このように噂しあった。     三  場所は、堀川院であった。  帝や殿上人たちが見守る中で、抜出勝負の取り組みがひとつずつ終わってゆき、真髪成村と海恒世の番になったのは、夕刻近くになってからだった。  成村も恒世も狩衣を脱ぎ、烏帽子をとり、犢鼻褌《たふさぎ》だけの姿になって向かい合った。  成村の顔は、血の気が失《う》せて青く見えた。  恒世は逆に、頭に血を昇らせて、その顔を赤くしている。  それぞれ左右の立合人が見守る中で、成村と恒世が睨み合った。  成村は身体大きく、向かいあっている恒世も、身の丈こそ成村よりいくらか低いものの、その肉体は決して成村にひけをとるものではない。  ふたりの間に気合が満ちて、むりむりとそれがふくれあがってくる。  そして、いよいよふたりの身体がぶつかり合うかと見えた時── 「待たれよ」  成村が障《さわり》を申し出た。  障というのは、今日の相撲における�待った�と似ているところがある。  立ち合い寸前に、相撲人の方から障を申し出て、その取り組みを免除してもらうことができる。  しかし、似てはいても、�待った�と�障�には違いがある。�待った�はあくまでも取り組みを先に延ばすだけのものであるが、�障�は、場合によっては取り組みそのものが失《な》くなってしまうこともあったのである。  海恒世の方は、気合充分であるから、気が満ちた時には真髪成村に向かって頭から突っ込んでおり、成村が障の声をあげた時には、もう組んでしまっている。しかし、障の申し入れがあった以上はそのまま闘いを始めてしまうわけにもいかない。  成村は、古くからの相撲人であり、齢もとっている。このまま無理に勝負に持ち込むのも気の毒だと考えて、恒世は、抱えていた成村の身体を放してやった。  しかし、今組んでみれば、老いたりとはいえ、成村の力はこれまで闘った相撲人の比ではなく、たやすく勝てそうにない。  これは、腹をくくらねばならぬ──  もう一度恒世は成村と睨み合った。  再び気合が満ちて、いざ勝負という時に、また── 「待たれよ」  成村が障を申し入れた。  これをまた、恒世が放してやり、さらにまた組もうという時になって、また成村が障を申し入れた。  これが、六度となった。  障を申し入れているうちに、その取り組みが中止になることは過去にもあったが、さすがに六度ともなると、これは明らかに故意のことである。  それほどに、成村が恒世を怖《おそ》れていたということなのだが、これには見物人や帝の間からも不満の声が洩れはじめた。  成村は、青い顔をして恒世を睨んでおり、七度目の立ち会いで、またもや障を申し入れた。 「待たれい、待たれい、お頼み申す」  泣きながら叫んでいる。  しかし、この障の申し入れはついに受け入れられず、ついに勝負は始められてしまった。  もはや、逃れられずと思ったか、追いつめられて、成村は凄まじい顔つきになり、 「あやや!」  怒気を含んだ叫び声をあげて立ちあがり、ただがむしゃらに、寄りに寄って組み合った。  恒世は、右手を成村の首に回し、左手で脇を差しにいった。  成村は、前の犢鼻褌──恒世の前褌《まえみつ》を引き、横褌《よこみつ》を取って力まかせに胸を合わせ、ただ狂ったように絡《くり》に絡《くれ》ば、恒世もたじたじとなった。  子供のような泣き声をあげながら、成村がひたすら押してゆけば、 「物に狂い給うたか、成村殿!」  恒世が叫んだ。  しかし、その声など聴こえぬ様子で、成村は恒世の身体を引き寄せ、外掛けをかけにいった。  それを恒世がこらえれば、今にも背骨が折れそうに腰が後ろに曲がった。  恒世の両足が、ずぶりと地面に潜り込み、これはもう成村の勝ちかと思われた時、 「む、むむう」  恒世は成村の外掛けを逆に内掛けにからめて、のしかかるように身体をあずけてあびせ倒した。  成村は、音をたててどうと仰向けに倒れ、その上に、恒世の身体が横ざまに倒れかかった。 �其《そ》の時に、此れを見る上中下《かみなかしも》の諸《もろもろ》の人、皆色を失《うしなひ》てなむ有《あり》ける�  成村が敗れ、恒世の勝ちであった。  この頃相撲に勝った方は、負け方に対して、手を叩いて笑うというのが、恒例になっているのだが、この時ばかりは、笑う者はおろか、手を叩く者さえなかった。  皆、隣の者どうし、声をひそめてひそひそと言いあった。  この後、すぐに次の勝負が始まる予定であったのだが、この一番についてあれこれと話し合っているうちに、日が暮れてしまった。  あびせ倒された成村はといえば、起きあがって相撲屋《すまいのや》にもどり、狩衣を身につけて、その日のうちに常陸国に帰っていってしまった。  この後も、成村は十余年を生きたが、 「恥見つ」  と言って、二度と京へ上ることをせずに、死んでいった。  一方勝った方の恒世は、起きあがれず倒れたままで、ついに右方の相撲の世話役たちがこれを起こし、抱えるようにして弓場殿《ゆばどの》に連れていき、そこに寝かせた。  右方の大将である藤原済時は、紫宸殿《ししんでん》の階下の座から降りて、 「大丈夫か」  寝ている恒世の方に歩み寄った。 「済時さま──」  恒世は、手を突いて、やっと身を起こした。 「成村はどうであった」  済時が問えば、 「よき最手にてありました」  ただそれだけを答えた。  済時は、身につけていた下襲《したがさね》を脱ぎ、 「褒美にとらせる」  そう言って恒世にこれを与えたが、恒世はそれをきちんと身につけることさえできなかった。  勝つには勝ったが、恒世は、胸の骨を何本もへし折られていたという。  成村が、胸を合わせて強引に引き寄せた時に折れたものであろうと、相撲人たちは噂しあった。 「いや、負けたとはいえ、なんという成村殿の大力」 「恒世殿とて、胸の骨をへし折られながらも成村殿をあびせ倒したとはなんという上手か」 「成村、恒世ともに、まことにすばらしい最手であったなあ」  宮中でも、しばらくふたりのことが話題になっていたが、海恒世の方は、この勝負からいくらもたたないうちに、この時の怪我がもとで、播磨国で亡くなったという。 [#改ページ]    巻ノ三 鬼の笛     一  ここで、源博雅《みなもとのひろまさ》という漢《おとこ》の話をしておきたい。  すでに別の場所で書いていることと重複する部分も出てくると思うが、晴明《せいめい》と同様に、この人物について、ここであらためて触れておくことは、必要なことと思われるからである。  源博雅──  六十代|醍醐《だいご》天皇の孫であり、克明《かつあきら》親王と藤原時平《ふじわらのときひら》の女《むすめ》との間に生まれている。  敦実《あつみ》親王(式部卿宮《しきぶきようのみや》)は、博雅の祖父(醍醐天皇)の弟であり、敦実親王の妻は博雅の母親とは姉妹であるから、敦実親王の息子であるすでにこの物語にも登場した広沢|寛朝僧正《かんちようそうじよう》と博雅は、従兄弟《いとこ》どうしということになる。  宮廷人。  天延二年(九七四)に従三位《じゆさんみ》。  やんごとなき時代の雅《みやび》を、空気のように呼吸していた人物である。  雅楽家であった。 �万《よろづ》の事|止事《やむごと》無かりける中にも、管絃の道になむ極めたりける� 『今昔物語集』にはそのように書かれている。 �博雅《はくが》の三位は管絃の仙《せん》なり�  と『続《しよく》教訓抄』にもある。  琵琶を微妙に弾き、龍笛《りゆうてき》、篳篥《ひちりき》などを奏した。  自らも楽《がく》を作曲している。  その曲「長慶子《ちようけいし》」は今も残り、舞楽会などの終わりには、退出楽として盛んに奏されている。南方系の調べがどこかにまぎれ込んでいるようでもあり、現在耳にしても、典雅で繊細な曲である。  源博雅ほど、天に愛された人物は、他に類を見ない。  先の『続教訓抄』によれば、博雅がこの世に誕生した時、天は言祝《ことほ》ぎの楽の音を鳴り響かせたという。  東山に、聖心《せいしん》という上人が住んでいたと、同書は記している。  あるおり、聖心上人は、天に艶《えもいわ》れぬほどの楽の音を聴いた。  笛二。  笙《しよう》二。  箏《そう》一。  琵琶一。  鼓《つづみ》一。  これらの楽器が、微妙の楽の音を奏でている。  この世のものとも思われぬほどに美しい楽の音である。 「はて──」  聖心上人は天を見あげた。  西の空に五色の雲がたなびいており、楽の音はそちらの方角から響いてくる。 「いや、めでたきかな」  聖心上人が、楽の音の響く方に歩いて行ってみれば、そこは高貴な方の屋敷であり、今まさにひとりの赤ん坊が生まれようとするところであった。  赤ん坊が生まれると共に、楽の音はやみ、五色の雲も消えた。  その生まれた赤ん坊が、源博雅である。  天より響く楽の音と共にこの世に誕生した博雅が、楽の才に恵まれていたというのも、うなずける話である。  さて──  逢坂《おうさか》の関に、ひとりの盲《めしい》の法師が庵《いおり》を造って住んでいた。  名は蝉丸《せみまる》といい、もともとは式部卿宮の雑色《ぞうしき》であった人物である。  琵琶の上手《じようず》であり、唐より渡ってきた琵琶の秘曲、「流泉《りゆうせん》」「啄木《たくぼく》」をたくみに弾いたと言われている。もともとは、式部卿宮が弾いていたのを、耳で聴いているうちに、これを覚えてしまったものである。 「いや、蝉丸法師殿のお弾きになる琵琶を、ぜひとも聴いてみたいものだ」  博雅は、かねてよりそのように考えていたのだが、なかなかその機会がない。  ついには人をやって、 「どうして、そのようなところにお住まいになっていらっしゃるのですか。都に来て住まわれたらいかがですか」  そのように伝えたのだが、蝉丸は返事を歌で返してきた。   世の中はとてもかくてもすごしてむ 宮も藁屋《わらや》もはてしなければ �この世の中は、どこに住んでいようとも、なんとかやってゆけるものなのですよ。美しい宮殿に住んでいようと、粗末な藁屋に住んでいようと、結局、いつかはどちらも失われてしまうものですからね�  このように言われ、 「なんとも奥床しきお方であることよ」  博雅、ますます感心をして、さらにはこの法師に会いたくなってしまった。 「なんとか、お会いして、琵琶を聴かせていただきたいものだ」 「流泉」「啄木」の秘曲も、今は、伝えるものと言えば蝉丸法師ただ一人《いちにん》である。 「もしも蝉丸法師殿がお亡くなりになれば、この秘曲がこの世から途絶えてしまう。このわたしとて、いつはかなくなってしまうかわからぬ身ではないか──」  そう思ったら、博雅は、矢も盾もたまらなくなってしまった。  そうして、博雅は、自ら逢坂山の蝉丸法師の元まで通う決心をしてしまったのである。  焦がれ焦がれた女《ひと》に逢いにゆくように、この漢《おとこ》は、ある夜、ただひとりで逢坂の関まで出かけていった。  しかし、この盲目の法師に会って、 「ぜひ、�流泉�、�啄木�の秘曲をお聴かせ下さい──」  と頼んだのではない。  なんと、博雅は、庵の庭に潜んで、蝉丸が自らの意志で自然に琵琶を弾くのを待つことにしたのである。  しかし、ただ一夜《ひとよ》通っただけで、偶然にこの法師が、「流泉」「啄木」の秘曲を弾き出すはずもない。  博雅は、毎夜、この法師の元に通い、庭に身を潜めては、 「今や弾く、今や弾く」  今のこの次の瞬間にも弾き出すかもしれないと、胸をときめかせて待ったのである。  月の明るい晩には、 「眼はお見えにならずとも、こんなに趣のある夜こそは、蝉丸殿も�流泉�、�啄木�をお弾きになるのではないか──」  博雅はそう思い、いっそうに胸を焦がしたのだが、蝉丸は、なかなかその曲を弾かなかった。  通い続けること、三年──  八月十五日の夜。  月は天に朧《おぼろ》にかすみ、わずかに風が吹いている。 �哀れ、今夜《こよひ》は興有《きようある》か。会坂盲《あふさかのめしひ》、今夜こそ流泉、啄木は弾くらめ�  博雅が胸をときめかせて待っていると、蝉丸は軒下の簀《すのこ》に座して、琵琶を抱えてそれを弾きはじめた。  弾きながら、蝉丸は、何やらしみじみと想いにひたっている気色である。   逢坂の関の嵐の激しきにしいてぞ居たる夜をすごすとて  琵琶を弾きながら、蝉丸はこのように詠じた。 �逢坂の関を吹く嵐の激しさに、眠りもやらず、一夜を過ごそうと、盲のわたしはじっと座り続けていることだ……�  これを聴いて、博雅の眼からは涙がはらはらとこぼれている。  そして──  まるで、琵琶が自《おの》ずと鳴り出《いだ》すように響いてきたのは、噂に聴く「流泉」「啄木」であった。  この秘曲については、『教訓抄』に次のように記されている。 �胡渭州の最良秘曲、流泉啄木なむ申曲侍る。梁王の雪の薗、いふこうが月楼、棲々たる風香調のしらべ、心もことばもおよばず。彼の南海にをもぶいしの黄門の、一面の比巴を相具して、万里の波濤にうかみ給けむ。何なる景気にて侍けん。風香調の中には花ふんふくの気を含み、流泉曲の間には、月せいめいの光をうかぶ�  博雅は、もう、滂沱《ぼうだ》の涙を流している。  見れば、朧の月明りの中で、蝉丸もまたその盲いた眼から頬に涙を伝わらせている。 「哀れ、興有る夜かな。若《も》し我に非《あら》ず数寄者《すきもの》や世に有らむ。今夜心得たらむ人の来《こよ》かし。物語せむ」  ああ、なんという趣《おもむき》深い夜であることよ。この風流を解するお方が、わたし以外にはいないものなのだろうか。もしも、管弦の道について深く理解している方がおられるのなら、ぜひ、このような晩に訪ねてきていただければなあ。心ゆくまで語りあいたいものだ。  これを聴いて、博雅は激しく胸を震わせたことであろう。  ああ、これは自分のことだ。  蝉丸の前に出てゆきたい。しかし、出てゆけば、内緒で庭に潜んでいたことがわかってしまう。  どうしたらよいのか。  しかし、迷った挙句に、この漢《おとこ》は意を決して、涙もぬぐわずに立ちあがった。 「王城《みやこ》に有る博雅と云者《いふもの》こそ此《ここ》に来たれ」  この過剰で純情可憐な感受性を持つ漢は、おそらくは頬を赤く染め、呼吸を荒くしながら、初《うい》ういしい若者のごとくにこの言葉を発したに違いない。  朱雀門の上から跳び降りるような心地がしたことであろう。  そのひとならここにおりますよ──  博雅は言った。 「かくもうすは、いったい誰《たれ》にておわしますか──」  蝉丸に問われて、博雅はこれまでのことを語った。 「なんと、三年も我が庵に通われたのでござりまするか──」 「幸いにも、今夜、�流泉�、�啄木�を聴くことができ、これに勝る悦《よろこ》びはありません」 「どうぞ、博雅様、こちらへおあがり下さりませ」  こうして、博雅と蝉丸は簀に座し、朧の月光の下で語りあったのである。 「流泉」「啄木」の手について博雅が問えば、 「亡き式部卿宮は、かつて、ここはかようにお弾きなされておりました」  蝉丸が丁寧にそこを弾くという、まことに夢のごとき時間であった。  博雅は、口伝《くでん》でこれを習い、帰ったのは暁の頃であったと件《くだん》の物語は伝えている。  さて──  これも『今昔物語集』が伝える話である。  村上天皇の御代──  玄象《げんじよう》という琵琶があった。  唐から渡ってきた琵琶の名品である。  古来より皇室に伝えられてきた宝物であったが、ある時、この玄象がにわかに見えなくなった。  村上天皇は、おおいにお嘆きになり、 「かくもやんごとなき伝わりものが、我が代にして失《うせ》にけるとは──」  臥《ふ》せって寝込んでしまった。  誰ぞが盗んだものであろうと宮中では噂されたが、 「盗んだところで、ひと目で玄象とわかる品を持っているわけにもゆくまい」 「帝《みかど》に恨みを持つものが、これを盗んで壊してしまったのではないか」  このように言う者もあった。  源博雅もまた、この玄象の紛失については胸を傷《いた》めていた者のひとりである。  ある晩──  博雅は清涼殿にて宿直《とのい》をしていた。  他の者は寝静まっていたが、博雅ひとりは眠れずに起きていた。  思い出すのは、一度ならず手にして弾いたこともある玄象のことである。 「ああ、なんという琵琶の逸品が、この世から失せてしまったのか──」  心の中でそうつぶやいては溜《た》め息をもらしている。  と──  ふと気がついてみれば、どこからか、微《かす》かに琵琶の音が聴こえてくる。  はて、空耳か──  いぶかしく思って耳を澄ませば、確かに琵琶の音は聴こえており、しかもその音色には聴き覚えがある。  これは、玄象ではないか。  心を落ちつけて、あらためて聴いてみても、やはり玄象の音色である。博雅が、それを聴き違えるわけもない。  博雅は、これをおおいに驚き怪しみて、人にも告げず、直衣《のうし》姿に沓《くつ》だけを履《は》き、小舎人童《ことねりわらわ》ひとりを連れて、外へ出た。  夜の闇の中で聴き耳をたてれば、確かに琵琶の音はまだ聴こえている。その音はまさしく玄象のものであり、どうやら南の方から聴こえてくるらしい。  衛門府の侍詰所から出てゆき、音をうかがってみれば、朱雀門のあたりからその音は聴こえてくるようである。  しかし、南へ下って朱雀門まで来てみれば、玄象の音は、さらに南から聴こえてくる。 「さては、誰ぞが玄象を盗み、物見の楼観《ろうかん》に登って、そこでひそかに玄象を弾いているのであろう」  そう思って、件の楼観まで行ってみれば、音はさらに南から聴こえてくるではないか。  こうして、南へ南へと下ってゆくうちに、ついに羅城門《らじようもん》まで来てしまった。  荒れ果てて黒々と闇の中にそびえている羅城門の下に立って見あげれば、玄象の音は、上の層から聴こえてくる。  小舎人童は、しばらく前までは、口うるさくもう帰りましょうと言っていたのだが、ここに至っては、もはや言葉もない。  しかし、博雅は、もう小舎人童のことも忘れて、玄象の音を聴いている。  それにしても、なんという音色か。  その音は嫋嫋《じようじよう》として、闇にほどけ、荒れた羅城門の軒にからみ、夜風の中を渡ってゆく。もの凄まじくも美しい音色である。  玄象という琵琶の良さもさることながら、よほどの琵琶の上手が弾いているのであろう。この世の者が弾いているとも思えない。 「此《これ》は人の弾くに非《あら》じ。定めて鬼などの弾くこそは有《あ》らめ」  聴いていると、琵琶の音は、弾きやんだかと思うと、しばらくしてまた始まり、それが終わったかと思うと、また次の曲が始まった。  博雅は、うっとりとなってこれを聴いている。  ほどなくして、本当に琵琶の音が止んだ。 「もし……」  博雅は、下から門の上に声をかけた。 「門上で琵琶を弾いているのは、どなたでございますか──」  しかし、返事はない。  博雅の頭上には、重く闇がわだかまっているだけである。 「聴けば、その音は、先頃宮中より紛失《ふんじつ》した琵琶の玄象。帝はお悲しみのあまり、床に臥せってしまわれました。どうか、玄象の琵琶、お返しいただけますまいか」  博雅、まことに真っ直《すぐ》なものの言い方をした。  すると、しばらく沈黙があって、やがて門上より縄のついた琵琶がするすると下ろされてきた。  博雅がそれを受け取ってみれば、まさしく玄象であった。  この後は、何を問うても、門上からは無言の答えが返ってくるばかりである。  博雅は、さっそく宮中に帰って、これを帝に報告した。  村上天皇は、たいへんお悦びになり、 「やはり、これは鬼が盗っていったものであったか」  そのように仰せになった。 �此の玄象は生《いき》たる者の様にぞ有る。弊《つたな》く弾《ひき》て不弾負《ひきおほ》せざれば、腹立ちて不鳴《ならぬ》なり。亦塵居《またちりゐ》て不巾《のごはざ》る時にも、腹立ちて不鳴なり。其気色現《そのけしきあらは》にぞ見ゆるなり。在る時には内裏に焼亡《ぜうまう》有るにも、人|不取出《とりいださず》と云へども、玄象|自然《おのづか》ら出《いで》て庭に有り。  此《これ》奇異の事共也《ことどもなり》、となむ語り伝へたるとや�  このように『今昔物語集』は伝えている。     二 『続教訓抄』によれば、式部卿宮が、源博雅に対して、意趣《おもうところ》があったという。  意趣《いしゆ》──  恨みである。  式部卿宮──つまり、博雅とは血の繋がりのある敦実親王が、何かの件で博雅を恨んでいたというのである。それが、いったいどういう恨みであるのかは、『続教訓抄』は記していない。  式部卿宮は、�勇徒等数十人�に命じて、博雅を亡きものにしようと謀《はか》ったというから、これはなまなかな恨みではない。  そして、ある夜、宮《みや》に頼まれた勇徒らが、太刀を持って、博雅を襲うためにその屋敷まで出かけてゆくことになるのだが、驚いたことに、当の博雅は、そのようなことは露も知らない。  何しろ、相手を殺そうというほどの恨みであるから、襲われる方にも多少の心あたりはあるはずなのだが、博雅のその晩の様子から考えて、宮の恨みに気がついていたというふしが見あたらないのである。  博雅を亡きものにしようという男たちが、深更《よふけ》に博雅の屋敷までやってくると、当の博雅は起きており、寝殿の西の、 �妻内格子|一間許《いつけんばかり》あけて�  つまり、戸を大きく開け放って、有明に近い月が、西の山の端にかかるのをうっとりと眺めていたというのである。 「よい月だなあ……」  この漢《おとこ》であれば、そのおり、このくらいの独《ひと》り言は言ったと思われる。  まるで、自分が誰かに狙われるということなど、考えているとは思えない。  無防備きわまりないその姿に、まず、勇徒等は、たじろいだ。  おそらく、博雅のこの様子から考えて、式部卿宮の意趣とは、官位を争ったり、女を寝とったり寝とられたりという類のものではなかったろうと想像できる。おそらく、意趣というのは、両名が得意とする音楽に関わるものであったのではないか。博雅が、音楽に関することで、式部卿宮の心をおおいに傷つけてしまったことがあったのではないか。  しかし、博雅は、自分が宮を傷つけてしまったことに、まるで気づいていない──そう考えなければ、この時の博雅の様子が理解できないのである。  ともあれ──  博雅は、月を眺めながら大|篳篥《ひちりき》を取り出して、それを唇にあてた。  篳篥というのは、竹製の管楽器で、縦笛である。  博雅は、それを吹きはじめた。  篳篥の澄んだ音色が、夜風の中を流れてゆく。  博雅は、稀代《きたい》の笛の名手である。その博雅が、月に心を動かされ、自ら心のおもむくままに吹き出した笛である。  吹く者の心のみならず、聴く者の心まで動かさずにはおれない。寝所の縁に座し、篳篥を吹く博雅の眼からは、涙があふれている。  この博雅を見、笛の音を耳にして、 �不覚の涙下りけり�  勇徒らは、思わず涙を流してしまったというのである。  これは、とても斬れるものではない。  勇徒たちは式部卿宮の元まで帰り、これを報告した。 「あの方を殺すなど、とてもできるものではござりませぬ」  勇徒らが、博雅の様子を式部卿宮に語ると、宮の眼からも熱いものがあふれてその頬を伝った。 「博雅め……」 �同じく涙をながして意趣を思止給《おもひとどまりたまひ》にけり�  式部卿宮は、落涙して博雅を亡きものにしようというのを思いとどまったというのである。  なかなかに含みのある話である。  このことからも察せられるように、宮が心に抱いていた意趣というのは、やはりふたりの芸事、音楽に関わるものであったのではないか。  おそらくこれは実話であろう。  次は、『古今著聞集』の話である。 �博雅《はくが》の三位の家に盗人《ぬすびと》入りたりけり�  博雅の家に、盗人が入ったというのである。  これを知って、博雅は慌てて板敷の下に姿を隠した。 「おう、なかなかの品がそろうているではないか」  盗人は屋内を物色し、充分に仕事をして外へ出て行った。  盗人が帰った後、板敷の中から博雅が出てみれば、調度の品から何から、ほとんどのものが盗まれてしまっており、家の中はただがらんとしているばかりである。  篳篥ひとつばかりが、置物厨子《おきものずし》の上に残っている。  博雅はこの篳篥を手に取り、歌口を口にあてて、それを吹きはじめた。 �出でて去りぬる盗人、遥かにこれを聴きて、感情おさへがたくして、帰りきたりて云ふやう、 「只今の御篳篥の音をうけたまはるに、あはれにたふとく候《さぶら》ひて、悪心みなあらたまりぬ、盗るところの物どもことごとく返したてまつるべし」�  博雅の篳篥の音に心を動かされ、盗人が盗んだものを皆返しに来たというのである。  これもまた、博雅の吹く笛の力である。 『江談抄《ごうだんしよう》』によれば、博雅が笛を吹けば、宮中の屋根の鬼瓦までが地に落ちてきたという。  博雅が持っている葉双《はふたつ》という横笛のことはすでに書いたが、これは鬼からもらったものである。 �葉双は高名の横笛なり。朱雀門の鬼の笛と号すは是《これ》なり� 『江談抄』にはこのように記されているが、そのいきさつについては『十訓抄』に書かれている。 �月の明かりける夜──�  月の光に誘われるように、博雅は、ただ独り、直衣姿で外へ出た。  このような月の美しい晩は、月明りの下で心ゆくまで笛など吹きたいものだ──そう思ったら、矢も盾もたまらなくなり、とるものもとりあえず、笛ひとつを懐にしのばせて、博雅はいそいそと夜風の中へ出た。  朱雀門の前までやってくると、その下に立ち止まり、笛を唇にあてた。  澄んだ音色が、月光の中に伸びてゆく。  博雅の笛の音が、月光をからませて天地の間に染みてゆけば、これまでその内部に溜めていた月光の色を、天地がきらきらと夜気の中にあふれさせるようであった。  と──  どこからか、もうひとつ別の笛の音が聴こえてきた。 「はて──」  博雅がうかがってみれば、なかなかの手練《てだ》れが吹いているらしい。  どうやら、楼上に誰かあって、そこで笛を吹いているようである。 �その笛の音|此世《このよ》にたぐひなくめでたく聞こえければ──�  誰人《たれびと》ならん──とその姿を捜せば、博雅と同様に直衣姿の人影が楼上に見える。  博雅が再び唇に笛をあて、吹きはじめれば、楼上からの笛の音がそれに和してくる。  自身の身体が笛の音に溶け出して、楼上からの笛の音とひとつになり、この世のものとは思われぬ心地がする。  博雅もものを言わない。  かれもものを言わない。  無言のまま、博雅は終夜笛を吹いた。 �かくのごとく、月の夜ごとに行きあひて、吹く事|夜比《よごろ》に成《なり》ぬ�  こうして、月の夜になると朱雀門までゆき、博雅はその楼上の人影と笛を吹きあった。  博雅が出かけてゆき笛を吹けば、必ず、楼上よりそれに笛の音が和してくるのである。 �彼人《かのひと》の笛の音ことにめでたかりければ、試《こころみ》に笛《かれ》をとりかへて吹ければ、世になき程の笛也�  笛をとりかえて吹いてみたら、なんとも言えぬほど良い音がする。 �そのゝち猶々《なほなほ》月の比《ころ》になれば、ゆきあひて吹けれども、本《もと》の笛をかへしとらん共《とも》云はざりければ、永くかへて止みにけり�  結局、その笛は取りかえたままとなり、博雅のものとなってしまった。  後年、博雅が世を去ってから、帝がこの笛を手に入れ、時の笛吹にこれを吹かせたが、誰もこの笛から音を出せる者はいなかった。  さらに後の世になって、争蔵《じようぞう》という笛の名人があらわれた。  帝がこの争蔵に博雅の笛を吹かせたところ、たいへんに良い音で鳴った。  これに感じて、帝は、 「この笛、朱雀門のあたりで手に入れたと聴いているが、争蔵よ、おまえ、朱雀門まで出かけてそこで吹いてみよ」  このように仰せになった。  月の明かりける夜、争蔵が朱雀門に行ってこの笛を吹けば、彼門の楼上より、 「いや、その笛なお逸物なるかな」  高く大なる音《こえ》にて言うものがあった。  これを争蔵が帝に申しあげたところ、 「実《げ》にこれは鬼の笛であったか」  帝はそのようにお答えになられたという話である。 �この笛、葉双と名付けて天下第一の笛なり�  胴の部分に二つの葉があって、ひとつは赤く、ひとつは青くして、朝|毎《ごと》に露おくと云《いい》つたえられて、この名がある。  源博雅の逸話はまだある。  博雅は、『長竹譜』『新撰楽譜』等の幾つかの音楽に関する著作もあらわしている。  そういった書の奥書のひとつに、博雅は次のように記している。 �『万秋楽《まんずらく》』を案ずるに、序より始めて六の帖《じよう》に畢《は》つるまでに落涙せざる無し。予、世々生々、在々所々、箏をもって『万秋楽』を弾く身に生れむことを誓ふ。およそ調子の中には盤渉《ばんしき》調|殊《こと》に勝れ、楽の中には『万秋楽』殊に勝れたるなり� 『万秋楽』という曲について考えてみるに、序から弾きはじめて、六の帖にいたるまでの間に落涙しないことがない。いつの世の、どの場所に生まれかわろうと、自分は箏をもって『万秋楽』を弾く身に生まれかわりたい──  よほど心に訴えるところのある曲であったのだろう。誰でもが泣かずにはおれないと言っているのではなく、これは、博雅自身の個人的な思い入れを伝えているのであろう。  他人はどうであれ、少なくとも、 「このおれは、必ず泣いてしまうのだよ」  晴明にそう言っている博雅の肉声が聴こえてきそうである。  おそらく──  二度|奏《かな》づれば二度、十度奏づれば十度、百度奏づれば百度、この漢は間違いなく落涙するであろう。  博雅とは、そういう漢である。  源博雅という人物について思いを馳《は》せる時、心に浮かんでくるのは�無為�という言葉である。  作為が無い。  たとえば、博雅が生まれた時、天上に妙《たえ》なる音楽が鳴り響いたというのは、当然ながら博雅が天に命じたものではない。天は自ら鳴り響き、博雅の誕生に際して言祝ぎの意を知食《しろしめ》したのである。  屋根の鬼瓦が落ちたというのも、落とすために博雅は笛を吹いたのではない。  式部卿宮が放った勇徒等が、博雅を殺すのを思いとどまったというのも、そのために博雅は篳篥を吹いたのではない。盗人が、盗んだものを返しにきたのも、博雅がそれを謀ってしたことではないのである。  朱雀門の鬼が、博雅の笛と自分の笛とをとりかえたのも、博雅がそれを意志したものではないのだ。  博雅は、ただ、おのれの心のままに笛を吹いただけである。  その笛に、鬼が心を揺らし、天地が感応して、心のない鬼瓦までが落ち、精霊が動くのである。  安倍晴明と源博雅という人物を比べてみる時、ここが大きな違いであるのかもしれない。  天地の精霊や、鬼たちは、晴明の意志によって感応し、動く。しかし、博雅の場合、鬼や天地の精霊たちは自らの意志によって動くのである。  しかも、この自らの能力に、博雅自身気づいていないらしいというのも、好ましく思われるのである。  誰の心にも宿ることのある、嫉妬や怨恨《えんこん》、悪意という負の感情を、おそらく、この漢は生涯自分の内部に見ることがなかったのではないかとさえ考えたくなってしまう。  時に、愚直なほど真っ直なものが、この男の中心を貫いていたのではないか。  このあたりに、源博雅という人物の持っているおかしみがある。  この稀有《けう》な人物は、思うに、どんなに哀しい時でも、正面から、真っ直に哀しんだことであろう。  まことに、博雅という漢は可愛い。  男が持つ色気の中に、源博雅という人物が有するこの可愛気のようなものが入ってもよいのではないか。     三  堀川のあたりを、法師姿の老人が歩いている。  月夜である。  月の光が、この老法師の影を、くっきりと地に落としていた。  身に纏《まと》っているものは、よれよれで、垢じみており、あちこちが破れている。衣服というよりは、泥で煮しめた襤褸《ぼろ》を身体にひっかけているように見える。  白髪、白髯《はくぜん》──  ぼうぼうと蓬《よもぎ》のように白髪が頭の上でからみあっており、皺の中で、眼ばかりが炯炯《けいけい》とした光を放っている。  怖い眼つきの老人であった。  目的があって歩いているようには見えなかった。  ただ、ゆるゆると歩いている。  と──  老法師は足を止めた。 「はて──」  笛の音《ね》が聴こえているのである。  老法師が、顔をあげて天を見やれば、夜風の中に笛の音が流れている。  頭上から注いでくる月光が夜気に触れ、地上へ降りてくる間に発酵し、静かに、細い清らかな音《おと》をたてているようにも思える。  どこか、遠くから聴こえてくるものらしい。 「なかなかのものじゃ……」  老法師は、独りごちた。  並の吹き手であれば、ここまで届いてくる間に、音は風にまぎれ、切れぎれになって夜気の中に消え去ってしまうであろう。  しかし、これほど淡く微かになっても、この笛の音は消えることなく聴こえているのである。  誰かが、この月の下で笛を吹いているらしい。  老法師は、その笛の音に誘われるようにまた歩き出した。歩くにしたがって、笛の音は、少しずつだがだんだんと大きくなってくる。  もう少しゆけば、堀川小路である。  どうやら笛の音は、堀川の上流の方から届いてくるようであった。  堀川小路へ出るその寸前で、また老法師は足を止めていた。  前方に妙《みよう》なものを見たからであった。  女であった。  柳襲《やなぎがさね》を着た女が、歩いているのである。  妙というのは、その女がただ独りであったことであり、そして、被《かずき》も何も冠《かぶ》らずに素の顔を見せて歩いていることであった。  さらに言うなら、柳襲などは、宮中などの屋敷の中で身に纏うものであり、牛車《ぎつしや》に乗っているというのならともかく、夜中に、たった独りでこんな場所を歩いている女が着るものではない。  賊に襲われ、ただ独りで逃げてきたかとも思ったが、それにしては慌てたようすもない。  気のふれた女が、家人の知らぬうちに屋敷を抜け出して、外へさまよい出てきた──そう考えてみれば、そうかという気もしてくるが、それでもまだ妙である。  女の身体がぼうっと淡い光のようなもので包まれている。  おぼろな燐光のようなものを身にまとわりつかせながら、女は、月光の中をしずしずと、身体を少しも揺らしもせずに歩いてゆく。まるで、水の面《おもて》に立って、流されてゆくようになめらかな歩みであった。  顔はほの白く、月光で青くも見えていた。  どういう表情も、その顔にはあらわれてないようにも見えるが、心に何かを堅く想いつめているものがあれば、人はそういう顔つきにもなる。 「ほほう、これは……」  ふいに、何事か理解したように、老法師はつぶやいた。 「生霊《いきりよう》ではないか」  老法師の唇の左右が吊《つ》りあがり、黄色くなった歯が覗《のぞ》いた。 「おもしろい」  にいっ、と老法師は笑った。  老法師は、その女の生《い》き霊《すだま》の後をつけはじめた。  どこかにある肉体から、この女の霊が抜け出して、さまよい出したものであろう。どうやら、その女の生き霊もまた、笛の音に誘われているらしい。  歩いてゆくに従って、笛の音は大きくなり、寥寥《りようりよう》として、夜気の中に響いている。 「これほどの笛、めったなことで聴けるものではない……」  この女でなくとも、聴いていると魂を吸いとられそうになる。  ゆくうちに、向こうに堀川橋が見えてきた。  見れば、その橋の袂《たもと》に、直衣姿の男が立って、笛を吹いているのである。  男は、月光を浴びながら、存分に心気を込めて笛を吹いていた。     四  源博雅は、葉双《はふたつ》を唇にあて、笛を吹いていた。  堀川橋の袂である。  相撲節《すまいのせち》が終わってから、また、ここへ通い出したのである。  夜毎に、橋の袂に立っては、笛を吹いた。  この間に、月は欠けて新月となり、その月がまた育って、もう満月に近くなっている。  気にかかっているのは、海恒世《あまのつねよ》を負けさせて欲しいと言ったあの女のことであった。  尋常の勝負をして、海恒世が勝った。  しかし、勝った海恒世は、胸の骨が折れており、今は独りで歩くこともままならぬ身体となってしまった。  勝負には勝ったが、これはある意味では、恒世の負けとも考えられる。こういった噂は、すでにあの女の許へも届いていよう。それについて、あの女はどう考えているのか。  女の願いを聞いてやれなかったことも、悔やまれている。しかし、仮に、もう一度同じようなことを頼まれたとしても、これは聞き入れてやれるものではなかった。 �ほんに、よい笛でござりましたなあ�  去り際に、博雅に言った女の言葉が、今も耳に残っている。  何度でも──  博雅はそう思っている。  もし、もう一度あの声が聴けるのなら、あの女の唇が、あの声で、もう一度よい笛であったと言ってくれるのなら、自分は何度でもこの橋の袂へ通ってこうして笛を吹くであろう。  と──  向こうに、ぼうっと青白く光る人影を博雅は見た。  その人影が、ゆっくり、自分の方に近づいてくるではないか。  あのお方か。  博雅の胸の鼓動が高くなった。  女は、青白く光る薄い衣《きぬ》を霧のように身に纏っているように見えた。  燐光を放つ、暗い海の底に棲《す》む魚のように、朧《おぼろ》の光を身にまとわりつかせ、女が近づいてくる。  しかし、何故、牛車にも乗らず、徒歩《かち》で、しかもただ独りで女は歩いてくるのか。  やがて、女は、博雅の前に立った。  淡い光に包まれた女が、博雅を見た。  その時、博雅は、女が肉の身を持っていないことに、はじめて気がついた。  女の顔を透かして、向こうにある柳が見えていたのである。  しかし、それは、確かにあの女であった。  十二年前に初めて逢い、そして、今年、十二年ぶりに逢った、あの女。  だが、女のこの姿は、いったいどういうことなのか。  その時、ひとつの考えが、博雅の脳裏に浮かんだ。怖いその思いが、博雅の背を、冷たい風となって疾《はし》り抜けた。  透きとおるような、その身体……  ──まさか。  女が、何とも言えない眼で、博雅を見つめていた。  何かを、必死でこらえているような唇。 「そなた、この世のものでないのか!?」  博雅は言った。  女の唇が、ようやく動き── 「博雅さま……」  消え入りそうな声で言った。 「そのお姿は、どういうことなのですか」  博雅は訊《き》いた。  しかし、女は答えなかった。  すがるような瞳で、博雅を見つめ、 「博雅さま……」  すきま風のように細い声であった。 「お助け下さいまし」  女が、遠い、遥か彼方を見やるような眼で、博雅を見ていた。 「どうしたのだね、何を助ければいいのだね。わたしは何をしてさしあげればよろしいのだね?──」 「わたしにも、どうしていただくのがよいのか、それがわからないのです……」  女がそう言うと、細い呼気のように、女の赤い唇から、青みを帯びた、緑色の炎がちろちろと洩れ出てきた。 「お願いでございます。お助け下さいまし。このままでは、このままでは……」  しゃべる度に、女の唇から、炎が燃え出てくる。 「このままでは、何なのだね。何をしてさしあげればよいのだね」  博雅の問いに、女は哀しい顔をするばかりであった。 「お助け下さいまし、博雅さま……」  必死の声で言った女の姿が、博雅の前で、ふわりと、大気に溶けたように消え去っていた。  あとは、さっきまで女が立っていた誰もいない地面の上を煌煌《こうこう》と青い月が照らすばかりであった。 [#改ページ]    巻ノ四 丑の刻参り     一  ※[#歌記号、unicode303d]日も数添《かずそ》ひて恋衣《こいごろも》   日も数添ひて恋衣   きぶねの宮に参らん  女が、ただ独《ひと》りで歩いている。  夜の山の道であった。  白装束である。  しかも、素足であった。  道の左右は深い森であり、月の光さえも届かない。どうかすると、ほんのひと筋、ふた筋、青い月の光が差している場所もあるが、わずかばかりの光は、かえって夜の闇を深めるばかりである。  桂《かつら》や栃《とち》、杉や檜《ひのき》の古木が、身をよじりあわせるようにして生えている。  道のあちこちには、岩や、木の根が顔を出している。  その上を、傷々《いたいた》しいほど白い、女の素足が踏んでゆく。  ある岩には苔が生え、ある根は湿って滑り易い。  つまずくこともあれば、尖《とが》った石を踏んで足や爪に血を滲《にじ》ませることもある。  何かを思いつめているように、女の顔は、行く手の闇ばかりを睨《にら》んでいる。自分が見つめている闇よりもなお深い闇が、女の眸《め》の中に宿っているように見える。  こんな夜更けに、こんな森の中を歩いているというのに、どのような怖さも女は感じてはいないらしい。  長い髪が、おどろにほどけて、うっすらと汗をかいた頬に張りついている。  不気味であったのは、女が、その口に五寸の釘を咥《くわ》えていることであった。  唇で──ということではない。女は、歯で、その五寸の釘を噛み、咥えているのである。  足を踏み出す度に、着ているものの裾から、女のなま白いふくらはぎや、時によっては、太股までが見えることもある。  袖からは、白い二の腕までがのぞく。  一度も、陽の光を浴びたことなどないような、なまなましい人間離れをした肌の白さであった。  女は、左手に、木で作った人形《ひとがた》を握っていた。  そして、右手には、鉄《かね》の槌《つち》を握っている。  その女が、闇夜の森の中を、幽鬼のように歩いてゆくのであった。  ※[#歌記号、unicode303d]人の偽り末《すゑ》知らで   契《ちぎ》り初《そ》めにし悔しさも   ただわれからの心なり  女は、山道を、貴船神社に向かって歩いているところであった。  貴船神社は、京の北西の山の中にある。  祭神は、|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》と|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》である。  いずれも水神《すいじん》である。 �|※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]《おかみ》�とはすなわち龍神《りゆうじん》のことであり、高[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神の�高《たか》�とはつまり山の嶺《みね》のことであり、闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神の�闇《くら》�とはつまり谷のことである。  その昔に、伊弉諾命《いざなぎのみこと》が、十拳剣《とつかのつるぎ》で迦具土神《かぐつちのかみ》の首を切り落とした時、剣頭より滴る血が手の俣《また》より洩れ出でて、この二神が誕生したと言われている。  社伝によれば、祭神はこの二神の他に、罔象女神《みずはのめのかみ》、国常立神《くにのとこたちのかみ》、玉依姫《たまよりひめ》、あるいは天神七代地神五代、地主神とも伝えられている。  祈れば雨を降らせ、願えば雨を止ませることもできると言われている。  その社記に、 「国家安穏、万民守護のため、太古�丑《うし》の年の丑の月丑の日の丑の刻�に、天上より貴船山中腹、鏡岩に天降《あまくだ》れり」  とある。  女は、その貴船神社に向かって、歩いているところであった。  左右からは、鬱蒼《うつそう》と草が道にかぶさり、歯朶《しだ》が地面を覆っている。  暗い谷の道であった。  水神を祭る社へ続く道にふさわしく、大気も重く湿気を含んでいる。  女の着ている白い衣も、水気を含んで重くなっている。  女が歩いてゆけば、時おり、青い月光が女の肩や髪のあたりに差し、それが鬼火のようにも見える。  ※[#歌記号、unicode303d]あまり思ふも苦しさに   貴船の宮に詣《もう》でつゝ   住むかひもなき同い世の   中《うち》に報いを見せ給へと   頼みを懸けてきぶねがは   早く歩みを運ばん 「あな憎《にくら》しや……」 「あな恨《うらめ》しや……」  歩きながら女はつぶやいている。  ※[#歌記号、unicode303d]生けるかひなきうき身の   消えんほどとや草深き   市原野辺《いちわらのべ》の露分けて   月遅き夜のくらまがは   橋を過ぐればほどもなく   貴船の宮に着きにけり   貴船の宮に着きにけり  社の入り口まで歩いてきて、女はそこに立ち止まった。  すぐ向こうに、男がひとり、立っていたからである。  女は、持っていた人形《ひとがた》を袖の中に隠し、口に咥えていた釘を、ふっ、と左手の中に吐き出した。  右手に握った金槌だけをそのままにして、足を止め、男を見やった。  見れば、白い水干《すいかん》を身に纏っている。どうやらこの貴船の宮に仕える者らしい。 「もうし……」  男が、女に声をかけてきた。 「何か──」  消えそうな声で、女は言った。 「いや、昨夜、不思議な夢を見ましてなあ」 「夢?」 「はい」  男はうなずき、一歩、二歩、女に歩み寄って足を止めた。 「夢の中に、大きなる龍神が二匹出てまいりましてなあ。その龍神が我に申されるには、明日の晩、丑の刻にこれこれの姿をした女人《によにん》が都より登ってまいる故、次のように伝えよと──」 「どのように?」 「汝《なんじ》が願い、聞きとどけたり、と──」 「おう……」  女の紅《あか》い唇が、すうっと吊《つ》りあがった。 「身には赤き衣《きぬ》を裁《た》ち着《き》、顔には丹《に》を塗り、髪には鉄輪《かなわ》を戴《いただ》き、三つの脚に火を灯し、怒る心をもつならば、すなわち鬼神となるべし──」  男がしゃべっているうちにも、女の唇の両端が、つうっとさらに吊りあがってゆき、白い歯が夜気の中に覗《のぞ》いた。 「あな嬉しや……」  にんまりと笑った。  もの凄まじき、顔となった。  ※[#歌記号、unicode303d]いふより早く色変はり   いふより早く色変はり   気色《けしき》変じて今までは   美女の形と見えつる   緑の髪は空《そら》さまに   立つや黒雲の   雨降り風となるかみも   思ふ仲をば裂けられし   恨みの鬼となつて   人に思ひ知らせん   愛《かなし》き人に思ひ知らせん  ほ、  ほ、  ほ、  女は長い黒髪を左右に打ち振りながら、高い声で笑った。  女の双《ふた》つの眸はぎらぎらと光り、おどろの黒髪は空に向かって立ちあがり、鬼になったように見えた。  あまりのおそろしさに、 「あなや」  男が声をあげた時には、女は、もう狂ったように踊りながら、夜の山道を都に向かって駆け下りてゆくところであった。     二  知らぬ間に、夏は去ってしまったものらしい。  叢《くさむら》で鳴いているのは、秋の虫である。  夏の草は、すっかり秋の草の中に埋もれ、どこかへ消えてしまったように見える。  すっかり柔らいだ風に萩が揺れ、女郎花《おみなえし》や桔梗《ききよう》が、その横に花を咲かせている。  軒ごしに見あげる空が高い。  青い天の風の中を、白い雲が動いてゆく。  午後──  晴明《せいめい》と博雅《ひろまさ》は、簀《すのこ》の上に座して、酒を飲んでいる。  胡《こ》の国の酒だ。  葡萄《ぶどう》で作ったその酒の赤い色が、ふたつの瑠璃《るり》の盃の中に溜《た》まって美しい。  盃を手に取り、時おりそれを口に含んでは、博雅は溜め息をついている。  話があるのだが──  そう言って晴明の屋敷を訪ねてきた博雅であったが、濡れ縁に座して酒を飲みはじめると、用事のことは口に出さずに、秋の庭を眺めては溜め息をついているのである。  晴明は、片膝を立て、背を柱にあずけて、静かに博雅を眺めている。 「なあ、晴明よ」  博雅は言った。 「なんだ、博雅」  晴明が動かしたのは、視線と唇だけである。 「どうして、この世のものは皆がみな、こうして動いてゆくのだろうなあ」  溜め息と共に博雅はつぶやいた。 「なんのことだ」 「見ろよ、この庭を──」 「───」 「しばらく前に、おまえと見た草や花の多くは、今はもうどこにも見えなくなってしまっているではないか」 「うむ」  青い花の鴨跖草《つゆくさ》。  赤い花の下野草《しもつけそう》。  それらの花は、今は見えず、蛍の姿も今はない。  時おり、百舌《もず》が高い空で鋭い声をあげては、いずこかへ飛び去ってゆく。  すでに、大気の中には秋の気配が凜《りん》として満ち、夏の名残はどこにもない。 「人の心もまた、このように移ろうてゆくものなのだろうなあ」 「だろうな」  晴明が静かにうなずく。 「なあ、晴明よ。人の心を、どうにかして知る術《すべ》はないものなのかなあ」 「人の心か」  晴明は、微笑とも苦笑ともつかぬ優しい笑みを口元に浮かべた。 「水のかたちを人に問おうというのか、博雅よ」 「水のかたち?」 「水は、丸い器に入れば丸く、方形の器に入れば方形となる。天から降れば雨となり、それが集まって流れれば川となる。しかし、水はどこでどのようなかたちになろうと、その本然《ほんねん》がかわるものではない」 「───」 「その時その時、水はその在る場所によってかたちをかえてゆく。水に、定まったかたちはない。博雅よ、これを名付ける術はないかとおれに問うのか──」 「いや、晴明よ、おれは水について問うているのではない。人の心について問うているのだよ……」 「博雅よ、それが件《くだん》の姫の心のことを言っているのなら、おれはそれを名付ける術を持たぬ」  すでに、博雅は、堀川橋で出会った、件の姫の生《い》き霊《すだま》については、晴明に語っている。  あれから、もう、ふた月余りが過ぎ去ろうとしていた。  女の姿が消えた晩から、博雅は何夜にもわたって堀川橋へ通ったのだが、以来女にもその生霊《いきりよう》にも会うことはなかったのである。 「いったい、どのようなことが、あのお方にあったのだろうかなあ、晴明よ──」  博雅の耳に残っているのは、切羽詰まったような、 �お助け下さいまし、博雅さま�  助けて欲しいと自分の名を呼んでいた、あの女の声であった。 「それを思い出す度に、おれの胸は苦しくなってきてしまうのだよ」  博雅は晴明に言った。 「あのお方のために、何もしてやることができぬのが、くやしくてなあ」  博雅は、瑠璃の盃の脚をつまみ、唇に運びかけたが、それをやめてまた濡れ縁の上に置いた。 「話というのは、それか、博雅よ」  晴明は言った。 「話?」 「何か、おれに話があるのではなかったか」 「そうだ、晴明よ。おまえに話があったのだ。しかし、それはあのお方のことではない。別のことだ」 「別の?」 「うむ」 「何なのだ」 「実は、藤原済時《ふじわらのなりとき》殿のことなのだ」 「相撲節《すまいのせち》のおり、海恒世《あまのつねよ》殿側の大将をなさっていた済時殿か」 「その済時殿が、最近、ご気分が優れぬというのだよ」 「気分が?」 「うむ。薬師《くすし》を呼んで薬を調合してもろうても、それがいっこうによくならぬのさ。もしかしたら、誰ぞ、自分に恨みを抱く者が、呪詛《ずそ》しているのかと済時殿は考えておられるのだよ」 「ふむ」  晴明が、興味を覚えたように身を乗り出した。 「で、どのようなぐあいなのだ」 「夜になると、お頭《つむり》や胸が痛むらしい。鉄釘《かなくぎ》を打ち込まれるような痛みだそうで、時には、腕や脚にもその痛みがおよぶそうなのだよ──」 「ほう」 「食も細くなられ、すっかりおやつれになってしまわれてなあ。一日中、寝床に臥《ふ》せっておられるそうだ」 「それで、どのくらいになるのだ」 「どのくらい」 「いつからそのようになられたのかということさ」 「この、四、五十日くらいのことらしいのだがな」 「ふうむ」 「この十日くらいは、とくに痛みがひどいそうだ」 「夜に、と言っていたが、いつも同じ刻限に痛むのか」 「だいたい、丑の刻あたりに痛みが始まるらしい。しかし、近ごろでは、その丑の刻に限らず一日中痛みが続いて、夜になると特にそれがひどくなるのだそうだ」 「ほほう」 「それで、済時殿が、おれのところに相談にこられてなあ。おれとおまえが親しくしているのは知っておられるから、ぜひ内々におまえにみてもらいたいということなのだよ」 「済時殿に、覚えは?」 「覚え?」 「誰ぞに恨みを買うような覚えがあるのかどうかということさ」 「いや、おれも同じことをお訊ねしたのだが、御本人は、覚えはないと言うておられたぞ──」 「なるほど。まあ、御本人がそう言われるのなら今のところはそういうことにしておこうか」 「待てよ、晴明。おまえの言い方は、済時殿が誰ぞの恨みを買っているということになるぞ」 「そこまでは言っていないさ。まだな──」 「まだ? それじゃおまえ、やはり……」 「まあ、待てよ、博雅。おれの話は後だ。おまえの話をまず聴かせてくれ」 「ああ、この話には、まだ先がある」 「で──」 「実は、ぐあいがおかしいのは、済時殿だけではないのだ」 「まだいるのか」 「実は、済時殿には、ひそかに通われているお方がおられてなあ。実は、その姫も、ぐあいがおかしいらしいのだよ」  博雅は言った。 「どちらの姫なのだ」  晴明は訊いた。 「おれも、済時殿に訊ねたのだが、お名まではおっしゃらなかったなあ」 「で、その姫はどういう様子なのだ」 「やはり、済時殿と同じ頃からおかしなことになってきたらしい」 「おかしいとは?」 「お頭や胸が痛むというのは済時殿と同じなのだが、違うところもある」 「何が違うのだ」  晴明に問われ、博雅は、何か怖いものでも思い出したように、 「それがお顔なのだよ」  声をひそめて言った。 「顔?」 「お頭や胸が痛み出したのと同じ頃のことなのだそうだが、姫のお顔に、できものができたそうなのだ」 「うむ」 「はじめは、小さい、米粒ほどの大きさのものが、お顔のこのあたりに──」  博雅は、右手の人差し指を、自分の右頬にあてた。 「──ひとつだけぽつんと赤くできただけであったらしいのだが、これがたいへんに痒《かゆ》かったというのだよ」  博雅は語り出した。  痒いから、爪の先で掻《か》いているうちに、その赤いできものが大きくふくらんできたのだという。  そればかりではなく、頬の、爪が走った場所にもできものが広がっていった。そこを掻くと、さらにできものの数が増えてゆき、これがまた痒いものだから、たまらずにさらにまた掻く。そうするとさらにまたできものが大きくなってゆく。  これを、爪の先でまたばりばりと掻き毟《むし》るうちに、皮膚は破けて、そこに膿が溜まるようになり、 「お顔の半分が、紫色に、爛《ただ》れたようになってしまわれたというのだよ」  博雅は、声をひそめるようにして言った。 「ふむ」 「済時殿は、姫の方もまた、御自分と同じように、誰ぞの呪詛を受けているのだろうと言っておられたが──」 「それで、おれか」 「まあ、そういうことなのだ、晴明よ」 「これは呪詛の筋だな」 「やはりそうか」 「おまえからの話ということだし、これは放ってもおけまいよ」 「では、やってくれるか」 「うむ」  晴明はうなずき、 「ついては博雅よ、ひとつ頼まれてはくれぬか」  博雅を見やった。 「なんだ」 「貴船の宮へ、誰か気の利いた者をやってくれぬか」 「貴船へ?」 「うむ」 「何故だ」 「理由を言うのはあとだ」 「どうしてだ」 「これは、おれの頭の中にだけある考えだからな。もしも当たっていたら、その時は理由をおまえに話すことにしよう」 「はずれたら?」 「ま、言わぬがよかろう」 「おいおい、もったいぶらずに話してくれたっていいじゃないか」 「安心しろ。おそらくは、おれの考えている通りであろうからな」 「ちぇ」  拗《す》ねたように、博雅は唇を鳴らした。 「その方がありがたみがあろう」 「ありがたみなどはかまわぬから、今教えてくれたってよいではないか」 「おれのためだよ、博雅。はずれたらさまにならぬではないか──」  晴明にそこまで言われては、博雅も折れざるをえない。 「人ならいるが、人をやってどうするのだ」 「宮の者を何人か掴《つか》まえて、このひと月余りで何かかわったことはありませんでしたかと、問えばよい」 「それだけでよいのか」 「ああ」  うなずいてから、 「いや、いきなり訊ねては、話も内密にはできぬであろうから、宮の者に会う前に、宮の森の中へまず入って、捜しものをしてみてもらってくれ」  晴明はそう言った。 「捜しもの?」 「うむ」 「何を捜せばいいのだ」 「これくらいの──」  と、晴明は両手で、長さ一尺に満たない大きさを示し、 「木で作った人形《ひとがた》か、藁《わら》で作った人形。あるいは動物の屍骸……」 「ほほう」  博雅は、興味深そうな声をあげた。 「捜すのなら、大きな歳経た樹の近くだな」 「見つからなかったら?」 「その時は、さっきも言ったように、宮の者にそれとなく訊ねてくれればよい」 「何かあったら?」 「そのまま、すぐにおれのところへ報告させてくれぬか──」 「わかった」  博雅がうなずいた時、庭の秋草の中に、ぬうっと立つ人影があった。  博雅が見やれば、それは、黒い水干を着た、ずんぐりとした白髪の老人であった。  背が、丸く曲がっているので、丈がさらに小さく見える。 「お、おい、晴明──」 「安心しろ、おれの式神《しきがみ》よ」  晴明が言った。 「ただいま、表に、蝉丸《せみまる》法師さまお見えでござります」  間のびした声で老人は言った。 「ほう、蝉丸殿が──」  晴明が言えば、 「源博雅様、こちらにいらっしゃるとうかがってやってまいりました。お目通りをお願いもうしあげたいとの仰せでございますが──」  老人が答える。 「おれに?」  博雅が身を乗り出した。 「博雅様のお屋敷に伺ったところ、土御門《つちみかど》の方へいらっしゃったとのお話でしたので、こうして、この安倍晴明様のお屋敷まで参上いたしました──と」 「では、こちらへお通ししてくれ、呑天《どんてん》──」  晴明が言うと、 「承知いたしました」  ぬうっと頸《くび》を長く伸ばして、老人が頭を下げた。  呑天と呼ばれたその式神が、萩や桔梗の花を分けながら、向こうへ姿を消していった。 「今の式神、おれは初めて見るぞ」  博雅は言った。 「呑天か」 「呑天というのか、あれは?」 「うむ。しかし、初めてではないぞ。おまえは二度目のはずだ」 「いや、これまで、おれは見たことがないぞ」 「そんなことはない」 「まさか」 「本当さ。あれで、なかなか人あしらいが上手でなあ。思いの他|重宝《ちようほう》している」 「ふうん」  博雅はうなずき、 「しかし、蝉丸殿が、いかようなわけあって、こちらまでいらしたのだろうなあ」  そうつぶやいた。 「それは、御自身に訊くがよかろうよ、博雅──」  晴明が言った時、濡れ縁の向こうの角から、呑天にともなわれて、蝉丸が姿を現した。  背に琵琶を負い、右手に杖を逆手に握り、その手を呑天にひかれながら歩いてくる。左手には、布で包んだ何かを抱えていた。  どうやら、それも、琵琶のようであった。 「お久しゅうござります。博雅様、晴明様──」  濡れ縁に座してから、蝉丸は丁寧に頭を下げた。 「蝉丸殿も、お元気そうで──」  晴明と博雅が、蝉丸に挨拶をしているうちに、呑天が濡れ縁から庭に降りて、奥の木立の間に姿を消してゆく。  消えてゆくその足音に耳を澄ませていた蝉丸が、 「晴明さま、今のあのお方は人ではありませんね」  そう言った。 「はい。わたしが使っている式神です」 「やはり……」 「しばらく前に、広沢の寛朝僧正《かんちようそうじよう》殿のところよりいただいてきた亀でございます」  晴明が言うと、 「あの時の亀か──」  ようやく腑《ふ》に落ちた顔で博雅がうなずいた。  そこへ── 「突然のお邪魔でございましたが、御迷惑ではありませんでしたか」  恐縮した声で蝉丸が言った。 「かまいませんよ。蝉丸殿ならいつでもいらして下さい」  晴明が答える。 「ところで、わたしに何か御用だったのですか」  博雅が問うた。 「はい。お見せしたいものがあって、お屋敷までまいったのですが、お留守とうかがいました。たぶんこちらであろうとのお話でしたので、こうして晴明様のお屋敷まで足を運ばせていただきました」 「見せたいものとは?」  博雅が問えば、 「こちらでございます」  蝉丸は、腕の中に抱えていた布に包んだものを濡れ縁の上に置いた。  博雅がそれを手に取った。 「琵琶のようですね」  布を解くまでもなく、形状を見れば、それとわかる。 「どうぞ、ごらん下さい」  うながされて、博雅が包みをほどいてゆくと、はたして、中から琵琶が現れた。 「おう」  博雅は声をあげて、それを手の中に抱えた。 「なんと美しい……」  うっとりとした溜め息と共に博雅は言った。  それは、みごとな琵琶の逸品であった。  槽《そう》は紫檀《したん》。  腹板《はらいた》は桐《きり》。  しかも、その腹板の部分には、螺鈿紋様《らでんもんよう》でみごとな鳳凰《ほうおう》と天女《てんによ》の姿が描かれている。  よほどの名人が描いたのか、鳳凰の姿には、今にも腹板から外へ飛びたってきそうな気配さえ感じられる。  しかし──  ただひとつ、惜しむらくは、腹板と槽の部分に、大きな亀裂の跡が残っていることである。その跡は、鳳凰の広げた翼にまで達していた。 「これは……」  傷を見て、博雅は顔を曇らせた。 「そうです、大きな傷が腹板と槽にございます。その琵琶がわたしの手元にまいった時にはもう、そこに傷があったばかりではなく、そこは大きく割れていたのです」 「なに!?」  博雅は、声をあげていた。 「その割れていたところの修理《しゆり》を頼んであったのですが、それが、このたび直ってまいりましたので、博雅さまに見ていただこうと思いまして、こうしてやってきた次第──」 「いや、蝉丸殿、もうしわけございませんが、もう一度、はじめから、ゆっくりとその話をお聴かせいただけませぬか」  博雅は言った。 「これは話を急ぎすぎたようで、失礼いたしました。はじめから順序をたててお話しもうしあげましょう」  蝉丸は、晴明と博雅に軽く頭を下げてから、話しはじめた。 「あれは、五十日か、六十日ほども前のことだったでしょうか。逢坂山にあるわたしの庵《いおり》に、女がひとり、訪ねてまいりましてな──」 「ほほう」  博雅は、琵琶を手にしながらうなずいた。 「庵の外で、我が名を呼ぶ声がございましてな。何事かと出《いで》てみれば、件《くだん》の女が、その琵琶を持って立っていたのでござります」  盲《めしい》でも声を聴けば女とわかるが、その女が立って琵琶を持っていたというのが蝉丸にわかったのは、その女としばらく話をしてからであった。 「蝉丸法師様でございますか」  出てきた蝉丸に向かって、女の声がそう問うてきた。 「いかにも蝉丸だが、そなたは?」 「理由あって、名前はもうしあげられませんが、ひとつ、ぜひにもお頼みいたしたきことがございまして、不躾《ぶしつけ》ながら、こうしてお願いにあがった次第でございます」 「願いとは?」 「こちらに、琵琶をひとつ、持ってまいりました……」  女が歩み寄ってくる気配があって、 「これを──」  蝉丸の手に、ずっしりと重いものが手渡された。手で触れてみれば、確かに琵琶であったが、しかしその琵琶は、 「壊れておりますね」  腹板の一部が大きく割れていたのである。  槽の部分にも裂け目があった。  高いところから岩か石のような堅いものの上に落としたり、ぶつけたりしなければ、このような大きな裂け目ができるわけもなかった。 「どうして、このように?」  蝉丸は、女に訊いたが、その質問には、女は答えなかった。 「その琵琶の供養をしていただきたくて、やってまいりました」 「供養?」 「はい。亡き父と母の最後の形見でありますれば、琵琶の上手《じようず》と評判の高い蝉丸法師さまに供養していただくのが何よりと思い、お願いにあがった次第なのです」 「何故供養を?」 「壊れたとはいえ、亡き父と母が、ずっと手元に置いていた品なれば、捨てるに忍びず、供養していただこうと考えたのでございます」  女は言った。  蝉丸は、その琵琶を持って抱えてみたが、なかなかに抱きごこちがいい。身体にしっくりと馴《な》じみ、壊れてなければすぐにも弦を弾きたくなってしまう。  名品であった。  眼は見えずとも、指で槽や腹板をなぞれば、そこで使用されている材料が何であるか、蝉丸にはわかる。槽は紫檀、腹板は桐。しかも、腹板の表面には、螺鈿紋様が入っている。 「鳳凰ですね」  指先で、愛撫するように螺鈿の紋様に触れながら、蝉丸は言った。  指先で、とん、と腹板を叩く。  琵琶に頬ずりするように耳を寄せ、蝉丸は、その音に耳を澄ませた。  と── 「惜しや……」  蝉丸の眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。 「なんという、みごとな琵琶の逸品──」  涙をぬぐおうともせず、 「もし、これが壊れてなければ、かの玄象《げんじよう》にも価するよき音が出たことでしょう。ああ、惜しや。つくづく惜しや……」  くやしそうに、首を左右に振った。 「これだけの琵琶をお持ちになるとは、さぞや子細のおありになることでしょう」 「もうしわけございませんが、その子細については、故あって申しあげられません。琵琶も逸物になると、魂が宿るとかもうします。よろしく、御供養のほどを、お願いもうしあげます──」  しかし、これを供養するのはいいが、なんとかならぬものかとも思う。  修理してなおるものならなおしたい。  しばらくその話を女としたという。 「この琵琶は、わたくしが勝手に、ぜひにもと言って預けてゆくもの。蝉丸さまにおまかせする以上どうなさろうと、蝉丸さまのよいようにして下されませ」  女はそのように言ったという。  やがて── 「よろしくお願いもうしあげます」  女が、頭を下げる気配があった。  衣擦《きぬず》れの音がして、女が背を向けたらしい。 「あ、もし──」  蝉丸が声をかけたが、女の足音は静かに遠ざかってゆくばかりである。 「もし──」  追いすがるように声をかけたのだが、女の気配は遠くなり、やがて、衣擦れの音も消え、最後まで聴こえていた足音も消えた。 「なるほど、そのようなことがあったのですか──」  蝉丸の話を聴き終えて、博雅が言った。 「はい──」  蝉丸は、深く顎をひいてうなずいた。 「燃やして、灰を土に埋め、供養しようかとも思いましたが、それも、あまりに惜しく思われ、知り合いの仏師のひとりに相談をしたところ、しばらく預からせてくれと言うので、そのままその琵琶を置いてきたのです」 「ほほう」 「その仏師から、三日前に使いがあって、琵琶をとりに来いというのです」  行ってみれば、琵琶の割れ目がふさがって、かたちはもとにもどっている。  なんとかかたちばかりはもとにもどしたが、音までもとにもどっているかどうか──  仏師はそう言って、件の琵琶を蝉丸に渡したのだという。 「これが、その琵琶なのですね」  博雅が、琵琶を手にしながら言った。 「ええ」  蝉丸がうなずいた。 「それで、弾かれてみたのですか」 「それが、まだなのですよ。せっかくのことなので、できることならば、博雅様に立ちあっていただければと思い、出かけてきたのです」 「おう、それはぜひ」  博雅が言えば、 「それは、ぜひ聴いてみたいものですね」  晴明が言った。 「晴明様まで聴いて下さるとあらば、願ってもないこと。心して弾かせていただきましょう」  蝉丸は、負っていた自分の琵琶を下ろし、博雅から件の琵琶を受け取って、それを抱えた。  懐から撥《ばち》を取り出し、 「何をお弾きいたしましょう」  ふたりに問うた。 「見れば、その琵琶は、玄象と同じく唐より伝来せし品かと見受けられますが──」  晴明が言った。 「はい。わたしもそう思います」 「おう、ならばちょうどよい。たまたま、我らが今飲んでいたのは、胡の国より、唐を経て伝わった葡萄の酒じゃ。唐から渡ってきた琵琶で弾くのなら、唐より伝えられた曲がよろしいのではありませんか」  博雅が言う。 「なかなかの趣向でございますな」  蝉丸は、何か思案するように首を傾け、 「では、�流泉�を──」  そうつぶやき、撥を構えた。  糸巻きをつまんで、弦を調節しながら、撥を当てる。  弦が鳴った。  まるで、心をその撥で弾《はじ》かれたように、 「おう……」  博雅は、思わず声をあげていた。  一本の弦が鋭く震え、音をこの世に生じさせ、そして消えてゆく。  しかし、その音は大気の中から消えても、心の中にいつまでも共鳴して残っているようであった。 「なんと……」  天に昇るような心地で、博雅は自らの肉体が弦と共に震えてでもいるように眼を閉じた。  次々に、弦に撥が当てられ、音が決められてゆく。  弦の調整が終わり、 「では──」  蝉丸がその琵琶を弾きはじめた。  ──流泉。  藤原貞敏《ふじわらのさだとし》が、承和《じようわ》五年(八三八)に唐に渡り、彼の地より伝来せしめた琵琶の三秘曲のうちの一曲である。  それが式部卿宮《しきぶきようのみや》に伝えられ、これが蝉丸に伝わり、今は博雅もまたこの曲の弾き手であった。  しかし、蝉丸が弾くこの曲は他の者が弾く「流泉」とは、また別格であった。  誰かが真似できる境地ではない。  博雅もまた並の弾き手ではないが、蝉丸とはその質を異にしていた。これは、博雅が、弾き手として蝉丸に劣るという意味のものではない。  盲目である分、音に対する執着が常人のそれではないのである。  流泉──曲調《しらべ》は簡素なのだが、撥の強弱やその緩急によって表すところが多く、弾き手の腕がそのまま演奏に現れてしまう。  蝉丸の「流泉」は、撥のひと当てごとに生ずる音が、そのまま艶《つや》やかな色となって見えてくるようであった。  嫋嫋《じようじよう》として、琵琶の音が、秋の野面を渡ってゆく。  晴明の屋敷の庭に、泉が滾滾《こんこん》と溢れ、流れ出してゆくようであった。  博雅の眼からは、涙がこぼれている。  最後のひと撥を当てた絃から、音が震える光となって生み落とされ、その光がいつまでも消えずに大気の中に残っている。その光を惜しむかのように、曲が終わってからも、しばらくは誰も声を発する者はなかった。  やがて、 「なんとも、これは、言葉もありません」  ようやく、博雅は言った。 「たいへんなものを、聴かせていただきました……」  晴明が、まだあたりに漂っている音の余韻を、うっとりと味わうようにいった。 「つたなき手でござりました」  蝉丸は、今の一曲で、魂を全て擦《す》り減らしてしまったように、脱力して頭を下げた。 「これまで、何度も�流泉�は耳にしましたが、これほどの�流泉�は初めてです」  博雅の声は興奮を隠せない。  顔が幾らか赤みを帯びている。 「この曲のあちこちにこれまで隠されていた音まで、全てがあますところなくつまびらかになってしまったようです」  博雅は言った。 「この琵琶が持っている力ですよ。この琵琶から出てくる音があまりに良すぎるのです。最初の音を出した途端に、もう、次の音が決まっているのです。次の音をこの琵琶が要求してくるのです。わたしは、この琵琶が要求してくる音を次々に出していったにすぎません。今のは、琵琶がわたしに�流泉�を弾かせたのですよ」 「いや、それも、蝉丸殿であるからこそできたことです」 「博雅様がお弾きになられても同様であったと思いますよ」 「いえ。わたしが弾くと、つい、美しく弾きすぎてしまうのです」 「美しく弾くのならよろしいのではありませんか」 「この�流泉�に限っては、そうではありません。�流泉�はまさしく、蝉丸殿のためにあるような曲です。この曲に隠されていた深い哀しみの色まで、蝉丸殿の手によって露わにされてしまったようです。白翁《はくおう》が、潯陽江《じんようこう》の船上で聴いた琵琶の音は、まさしくかようなものであったのかもしれません」  博雅が言った白翁とは、唐の詩人白楽天のことである。  ここで博雅がひきあいに出したのは、その白楽天の作った「琵琶行《びわこう》」という詩のことだ。  唐の元和十年(八一五)──  九江郡の司馬に左遷され、白楽天は鬱鬱とした日々を送っていた。この白楽天が、ある晩、潯陽江に友人を送ったおり、ふと耳を澄ませば、船上に響いてきた琵琶の音があった。  その調べの美麗なる哀しさに、思わず船を漕ぎ寄せてみれば、その琵琶を弾いていたのはひとりの歳老いた女であった。  話を聴けば、   本《もと》は是《こ》れ京城の女  もともとは都の女であったという。  十三歳にして琵琶を学び、   曲|罷《お》わりては曾《かつ》て善才をして伏《ふく》せしめ   粧《よそお》い成りては毎《つね》に秋娘に妬まる   五陵の年少争って纏頭《てんとう》し   一曲に|紅※[#「糸+肖」、unicode7d83]《こうしよう》数を知らず  琵琶の上手さでは師匠を感服せしめ、化粧をすませた後の美しさは、いつも名妓たちに妬まれたという。  五陵の若い貴公子たちからは、褒美の品が幾つも届けられ、一曲ごとにもらった紅い|※[#「糸+肖」、unicode7d83]《きぬ》は数も知れぬほどであった。   暮れ去り朝《あした》来たりて顔色|故《ふ》る   門前|冷落《れいらく》して鞍馬《あんば》は稀《まれ》に   老大《ろうだい》嫁して商人の婦《つま》と作《な》る  しかしやがて、歳月が過ぎ、容色は衰えて、馬に鞍をおいた貴公子の訪れもなくなり、歳をとって嫁にゆき、商人の妻となって、この地にやってきたのだと、その女は言った。  このおりのことを白楽天は「琵琶行」という詩に書いているのである。  白楽天に請われるままに、女が琵琶を弾けば──   幽咽《ゆうえつ》せる泉流氷下《せんりゆうひようか》に難《なや》めり   氷泉《ひようせん》は冷渋《れいじゆう》して絃は凝絶《ぎようぜつ》し   凝絶して通ぜず声|暫《しばら》く止む   別に幽愁《ゆうしゆう》と暗恨《あんこん》の生ずる有り   此の時声無きは声有るに勝《まさ》れり  まるで、その音は、むせび哭《な》く泉の水が、氷の下で行方を失って迷っているかのようであった。  氷下の泉は冷たくわだかまり、絃《いと》もまた凍りついてしまったかのように震えるのをやめた。  この時琵琶の音《ね》はしばし鳴り止む。  その沈黙には、深い愁いと恨みとがこもっているようであり、この時、この沈黙には琵琶が鳴っているおりよりもさらに勝《すぐ》れて胸に迫ってくるものがあるのである。  これほどの音であったと白楽天は詩に書いている。  そのおり、白楽天が聴いたであろう水上の琵琶の音に、博雅は蝉丸の弾いた�流泉�を譬《たと》えているのである。 「いえ、ひとえにこれは、わたしではなくこの琵琶の勝れていることによるものでござります」  蝉丸の言い方はあくまでも控え目であった。 「さらにもう一曲聴きたい気もいたしますが、それによって、この曲の余韻を消し去ってしまうのも惜しい気がいたします」  博雅は言った。 「それにしても、みごとな琵琶の音ですね。壊れる前の物がどれほどのものであったか……」  晴明がつぶやいた。 「はい。これほどの琵琶の逸品があったとは──」  蝉丸がうなずいた。 「壊れてしまったとはいえ、これだけの琵琶を手放されるのですから、よほどの子細があってのことなのでしょう」  嘆息した博雅に、 「この琵琶、博雅様にお預けしてゆきます」  蝉丸が博雅の膝の上にその琵琶を乗せた。 「わたしに?」 「琵琶のためにも、それが一番よろしかろうと思うのですが──」 「これは、さる女の方が、供養してくれといって、持ってきたものなのでしょう」 「わたしが持っているよりは、博雅様が持つのがこの琵琶の供養でございます」 「しかし──」 「これには理由《わけ》がございます」 「理由《わけ》?」 「先ほどは、色々とこの琵琶についてお話しもうしあげましたが、実は、まだもうしあげていないことがございます」 「何でしょう」 「この琵琶を置いていったお方と、琵琶の修理について色々とお話ししたおりのことでございます」  蝉丸はそのおりのことを語り出した。 「もしも、この琵琶がなおるものなら、いかがいたします」  蝉丸は、そのように女に訊いたという。 「なおるものなら?」 「これを、また、お受け取りにいらっしゃいますか」  そう言うと、女は、何事か思いつめているように、静かに首に左右を振った。 「もしも、これが、なおるものであれば、その時は──」 「その時は?」 「源博雅様に、これをお預け下さいまし」 「源博雅様に──」 「はい」 「何ともうしあげて、お渡しすればよろしいのですか」  女は、しばらく沈黙してから、 「堀川橋の女からと、そのようにもうしあげていただけましょうか」  そう言った。 「そのようにもうしあげまするが、それだけでおよろしいのですか」  蝉丸が問えば、 「それだけで」  女は細い声でうなずいた。  蝉丸が、さらに声をかけようとする前に、 「よろしくお願いもうしあげます」  女はそう言って、さきほどの話のごとくに去っていってしまったのだという。  蝉丸は、盲目の眼を、博雅の方に向けながら、 「この琵琶を博雅さまにお預けしたいというのには、かような理由《わけ》があったのでござります」  そう言った。  しかし、博雅は答えなかった。  放心したように、琵琶を抱えてそこに座していた。 「あのお方が……」  博雅は、つぶやいた。 「あのお方が、この琵琶を……」  十二年前──  堀川橋の袂《たもと》で聴いたのが、この琵琶の音であったのか。 「なんと……」  博雅は、晴明と蝉丸がそこにいるのも忘れたように、遠くを見つめていた。 [#改ページ]    巻ノ五 鉄輪     一 「いや、驚いたな、晴明《せいめい》よ」  源博雅《みなもとのひろまさ》は、興奮を隠せぬ声でそう言った。  昨日と同様に、安倍晴明《あべのせいめい》は、庭に面した濡れ縁で、博雅と向き合っている。  一日が過ぎていた。  たったの一日ではあるが、その一日分だけ、きっちりと秋が深まっている。  龍胆《りんどう》の紫の色が、一日分だけ濃くなっているようであり、蒼《あお》い天もまた、昨日よりは一日分だけ高くなり、透明さを増したようであった。  昨日の琵琶の一件については、もう、それを忘れてしまったかのように、博雅はそのことを口にしていない。  今は、藤原済時《ふじわらのなりとき》が掛けられている呪《しゆ》のことについて心を砕くべき時と、そういうふうに覚悟を決めているようであった。 「おまえの言う通りだったよ」  博雅の声は心なしかはずんでいる。 「何がだ?」  常と変わらぬ声で、晴明が訊いた。 「だから、貴船神社がだよ」 「貴船?」 「昨日、おまえが、使いの者でもやって話を聴いてこいと言ってたではないか──」 「おう──」 「だから、今朝、早速にも人をやったのだよ」 「そのことか」 「ゆかせたのは、藤原実忠《ふじわらのさねただ》という男だ。この実忠が、なかなか気の利く男で、こういうことにはうってつけの人物でな。貴船で、妙な話を聴き込んできたのさ」 「ほほう」  晴明も、興味を覚えたらしい声をあげた。  実忠は、博雅に言われたように、貴船まで出かけてゆき、宮に仕える清介《きよすけ》という男と内々に会って話をした。  はじめは、口が重かった清介も、実忠に問われるままに、ぽつりぽつりと自分の体験したことを語り出したというのである。 「薄気味の悪いことがございましてなあ」  清介は、実忠に向かってそう言った。 「どのようなことでございますか」  実忠が問えば、 「女でございます」  清介は答えた。 「女?」 「妙な女が、当宮に、夜な夜な、やってくるのでございます」 「ほほう」 「ひとりの女が、夜|毎《ごと》に、手に人形《ひとがた》と金槌を持ち、宮にやってきては、おかしなことをしてゆくのです」 「おかしなこと?」 「人形を、宮の周りにある大きな杉の幹にあて、その人形の顔と言わず胴と言わず、五寸の釘を打ちつけてゆくのですよ」 「どのくらい前からなのですか」 「気がついてからでも、ひと月余りになりますので、おそらくもっと以前からのことであったのではないかと思います」  ひとりの女が、深夜に白い衣を着て貴船の宮に参り、神殿近くの杉の森に入って、五寸釘で人形を杉の古木の幹に打ちつける。  その女に、最初に気がついたのも、清介本人であった。  ある夜、深更に眼が覚めて、厠《かわや》に立ったおり、杉林に入ってゆく女の姿を見てしまったのである。  何事であろうかと、清介は思った。  このような夜遅い時間に、女がたったひとりで、かような場所にやって来るものであろうか。  昼でさえ薄暗く、幽幻の気の満ちた場所である。  人か。  鬼か。  女ならば、何のためにこんな夜更《よふけ》にこんな恐ろしげな場所にやってきたのかを知りたかったが、清介は、別に女の後を尾行《つ》けたりはしなかった。もしも女が鬼であったり、この世のものでなかったりしたら、自分の生命に関わってくるからである。  あるおり、ふとこの女のことを宮に仕える仲間の男たちに話をしたら、 「ああ、それならば自分も見たよ」 「おれも見た」 「その女ならおれも知っている」  そういう男たちが何人か現れた。  男たちの話を合わせてみると、どうやら、女は丑《うし》の刻になるとどこからか姿を現すものらしい。 「そう言えば、きみの悪いものをおれは見たぞ──」  そう言う者も現れた。 「何だそれは」 「人形《ひとがた》だよ」 「人形?」 「藁《わら》で作った人形や、木の人形が、杉の木の幹に打ちつけてあるのだ」 「どこだ、それは──」  昼であったので、何人かで現場まで出かけてゆくと、そこは、宮の者でもめったにはゆかぬ森の奥であった。  一本の、巨大な杉の古木がそこに生えており、その幹に無数の藁や木の人形が打ちつけてあったのである。 「ぞっといたしました」  清介は、実忠に言いながら、そのおりのことを思い出したのか、小さく身震いした。  中には、女の声らしきものを、深夜に聴いた者もあった。  真っ暗な、墨のごとき夜の森の中から、さめざめと声をあげて哭《な》く女の声が聴こえてきたというのである。 「あらくちおしや、恨めしや……」  女が、つぶつぶと、闇夜の中でうらみごとをつぶやく、ものすさまじき声が聴こえてくるのである。  そういう言葉の合間に、低く慟哭《どうこく》する声も聴こえ、次には、気のふれた女が、細い声で唄うように何事かをさめざめと訴える声も聴こえてくる。  ※[#歌記号、unicode303d]恨めしや   御身と契りしその時は   玉椿の八千代二葉の松の末かけて   変はらじとこそ思ひしに   などしも捨ては果て給ふらん   あら恨めしや 「あなたをお慕いもうしあげたのは、私の自らの心でござります。誰から命ぜられたわけでもありませぬ……」  涙ながらに、女はそんなことを囁《ささや》いている。 「あなたが心変わりをされたからとて、一緒に私の心までが変わってしまうわけではないのでござります」  そして──  その言葉の合間に、  こつん、  かつん、  鉄《かね》の槌で、釘の頭《かしら》を打つ音が響いてくるのである。 「まだ思ってしまう。つい想ってしまう。思えば苦しい。想えば切ない……」  また、  かつん、  こつん、  と音が響いてくる。  ※[#歌記号、unicode303d]いでいで命をとらん   いでいで命をとらん  かつん……  こつん……  かつん…… 「やよ|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》、|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》。我を鬼となさしめて、徒人《あだびと》の生命を縮めたまえ……」  頭《かしら》の毛が太り、身の毛のよだつような声であった。  いずれかの女が、心変わりをした男を恨んで、深夜に呪詛《ずそ》をかけているのだとわかる。  これが、夜毎に続くのである。  宮の方は、たまったものではない。  気味が悪い。  あそこの神は、呪詛の手伝いをするというような、悪い噂がたつのも困る。  何をしているのか知らぬがそのようなことはやめよと、その女に無理やり呪詛をやめさせて、逆恨みをされるのも困る。  宮の者たちは、一計を案じ、女に嘘をつくこととなった。 �女よ、汝が願いは聴きとどけられたり�  このような答えがあれば、女もやってくることはなくなるだろうと。 「これは妙案」  多くの者が、それに賛同した。  女が、願を掛けている宮の神のふりをして、誰ぞがそのように告げれば、それで女は納得するであろう。  しかし、誰がその役をやるのか。 「おれはいやだ」 「おまえがゆけ」  皆が尻ごみをして、役を譲りあったが、おれがゆこうと言い出す者がない。 「そもそも、あの女のことを、最初に言い出したのは誰じゃ」 「おう、その者がゆけばよい」 「そうじゃ」 「そうじゃ」 「なれば、それは清介ではなかったか」 「そうじゃ、清介じゃ」 「清介が一番にあの女のことを言い出したのだったな」  結局、清介がその役をすることになった。     二 「で、清介が女にそれを言ったのが、二日前の晩のことだというのだ」  博雅は、晴明に言った。 「何と言ったのだ」 「清介の夢の中に、大きなる龍神が二匹出てきて、その女に、汝が願い聞きとどけたりと告げよと──」 「むう」 「身には赤き衣《きぬ》を裁《た》ち着《き》、顔には丹《に》を塗り、髪には鉄輪《かなわ》を戴《いただ》き、三つの脚に火を灯し、怒る心をもつならば、すなわち鬼神となるべし……」 「それはまた、むごいことを言うたな」 「むごい?」 「ああ。赤い衣を着て、そのあちこちを切り、顔を赤く塗って、頭に五徳を逆さに被《かぶ》れと言うたのだろう」 「脚に火を灯してな」 「それは、気狂《きふ》れ女のなりをせよと言うているのと同じではないか」 「その通りだ」 「そのような格好で人前に出て、笑われでもしたら、普通の御婦人ならば恥ずかしさで生きてはおられまい──」 「おまえの言う通りだよ、晴明。おれもそこまでは気づかなかったよ」 「宮の男たちは、女をからかってやろうとしたのだろうが、もしも女が本気になったら……」 「本気になったら?」 「いずれにしても、あまりよいことになるとは思われぬ」 「うむ」 「で、その女は言われてどうした」 「それがな、晴明よ。言われた女は、それはそれはおそろしい顔で、嬉しそうに笑ったかと思うと、踊るように駆け出して山を降りていったというのだよ」 「なかなか、怖い話だな」 「そうなのだ。言った清介も、小踊りしながら消えていった女の姿を見て、なんだか怖くなってきてしまったというのだよ」  寝床に入ってからも、あの嬉しそうに笑った女の顔が頭から離れない。  笑いものにしてやろうと思って言ったことであるのに、ことによると、本当にあの女は鬼に変じてしまうかもしれない。さらに考えてみれば、どうも妙である。どうして、わざわざあんな嘘をつくために、あのような夜更に女を待ったのか。  もしかしたら、自分たちで考えついたように思ってはいるが、女に言ったあのこともこのことも、実は、|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》と|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》が、女にそう言うように背後でしむけたのではないか。  でなければ、どうして、鉄輪を頭に被るというようなことを思いつくことができたのか── 「不安で困っていたところへ、ちょうど、実忠がやってきたというわけなのさ」  博雅は言った。 「なるほど」 「ところで晴明、そろそろ教えてくれてもいいではないか──」 「何をだ」 「どうして貴船へゆけと言うたのだ。まさしくおまえの言った通りであったのだから、これはもったいぶらずに教えてくれたってよいではないか──」 「そのことか」 「どうなのだ」 「丑の刻さ」 「丑の刻?」 「丑の刻になると、済時殿も、済時殿が通われている姫も、ぐあいが悪くなると言っていたではないか」 「───」 「そもそも、貴船の神は、丑の年、丑の月、丑の日、丑の刻に、天上より貴船山に天降《あまくだ》られたのだろう」 「たしかそうだ」 「だから、この神に祈って呪詛を掛けたり願を掛けたりする時には、丑の刻参りをすることになるのさ」 「なるほど」 「しかし、これは、その女の智恵だけとも思えぬ」 「何?」 「女に、誰か智恵を授けた者がいるかもしれぬということさ」 「その女に、誰ぞがついているということか──」 「まあな」 「誰だ!?」 「急《せ》くなよ、博雅。おれに、まだそこまでわかるわけはないではないか」 「それもそうだな」  博雅はうなずいた。 「ところで、晴明よ」 「どうした」 「実は、実忠がかようなものを手に入れてきたのだが……」  博雅は、懐に手を入れ、何やら布に包んだものを取り出した。 「何だ、これは──」 「開けてみてくれ」  晴明がその包みを博雅から受け取って、開いてみれば── 「人形《ひとがた》ではないか」  それは、ふたつの人形であった。  ひとつは、藁で作られたもので、もうひとつは木の板を人の形に切ったものである。  それぞれに、名が書いてあった。 「むむう」  晴明が声を放った。  藁の人形の方には、胴の部分に紙が張りつけてあり── �藤原済時�とある。  木の人形の方にも紙が張りつけてあり── �綾子《あやこ》�とあった。 「まさしくこれだな」 「清介が、女が走り去った翌朝に、参道でこれを見つけたというのだよ」  博雅は言った。 「森の中に落ちていたたくさんの人形の方には、名の書いた紙は張ってなかったのだな」 「ああ。紙の張ってあったと思われる跡はあったらしいが、どれも跡だけで、紙が残っていたものはない」 「ひと晩ごとに、呪詛を済ませると、名を書いた紙を剥《は》がしておいたのであろうな」 「では、これは──」 「まだ、呪詛する前の人形よ。鬼になれると言われ、悦《よろこ》んで走り帰るおりに、落としていったのだろう」  晴明は、手に握った木の人形を見やり、 「この首のところに、何本かの髪の毛を巻きつけて結んであるが、これは、綾子という方のお髪《ぐし》なのであろうよ」  そう言った。 「こちらの藁の人形の方は──」  晴明は、藁人形《わらにんぎよう》の胴の部分の藁を横に開きながら、そこに指を潜らせた。 「おう、あったぞ──」  晴明が、藁人形の中から、髪の毛の小さな束を取り出した。 「それは?」 「済時殿のものであろうよ」 「むう」 「こうして、人形を使った厭魅《えんみ》の法をとり行う時は、呪詛する相手の髪の毛や爪、血や精水などを人形の中に入れておくか、巻きつけたり、塗りつけたりしておくかすれば、その功力《くりき》はいっそう強くなるのさ」 「なんとも、おそろしい話だな」 「夜毎に人形をかえるというのも、念のいったことだ」 「しかし、藤原済時殿は、おれも承知をしているが、こちらの綾子というお方は──」 「さて、そこだな」  晴明は言った。 「おまえにも心あたりはないか」 「うむ」 「おれにも覚えがないので、今、実忠に調べさせているところなのだが──」 「しかし、こうなった以上は、済時殿にお訊ねするのが一番早かろう」 「それもそうだ」 「これは急いだ方がよさそうだな」 「ゆくか?」  博雅が腰を浮かせかけたところへ、 「待て──」  晴明が、博雅を制して、視線を庭へ向けた。 「どうしたのだ、晴明!?」 「客人が来たようだ……」  晴明が、低い声でつぶやいた。  博雅が眼を庭へ転ずれば、庭の秋草の中に呑天《どんてん》がぬうっと首を持ちあげてきた。 「どうしました?」  晴明が呑天に問う。 「ただいま、表に、藤原実忠様と言われる方がお見えになり、安倍晴明様、源博雅様にお会いしたいとおおせになっておられまするが──」 「おう、実忠が」  博雅が、落としていた腰を、また浮かせかけた。 「お通ししなさい」  晴明が言えば、蝉丸《せみまる》の時と同様に呑天が姿を消し、ほどなくすると、ひとりの男を案内して濡れ縁の上に姿を現した。 「実忠様をお連れ申しあげました」  呑天は、ゆっくりとした動作で頭を下げると、そのまま濡れ縁から庭に降り、草の中に身を沈めるようにして姿を消した。 「藤原実忠にござります」  実忠は、濡れ縁に両膝を突き、博雅の横に座している晴明に向かって頭を下げた。  上げた時にその顔を見れば、まだ二十代の面立ちをした若者であったが、その顔は愛敬があり、どことなく猿に似ている。 「どうしたのだ?」  博雅が問えば、 「博雅様に言われて、綾子というお名のお方を捜していたのですが──」  実忠が、顔を曇らせた。 「見つかったのか」 「はい、見つかったことは見つかったのでございますが……」 「何かあったのか」 「綾子様、昨夜、お亡くなりになられました──」  実忠が、また頭を下げた。 「何!?」 「お探しの綾子様ですが、昨夜、丑の刻、何者かに首をねじり取られて、お亡くなりあそばされました」  顔を伏せたまま、実忠は繰り返した。 「な、なんと──」  博雅は、思わず声を大きくしていた。 「綾だの綿だの、布を商っている男が知り合いにおりまして、この男が、仕事がらどういう女がどこに住んでいるというようなことに詳しいのです。その者に訊いたところ、綾子様であれば、四条大路の東に屋敷を構えている橘長勢《たちばなのながなり》殿の娘ではないかともうしまして、その屋敷まで出かけてゆきましたのが先程でございました」 「それで?」  博雅が問う。 「件《くだん》の屋敷の前までやってきますと、何やら中が騒がしいではありませんか」  実忠が、晴明と博雅に事情を語り始めた。  屋敷までやってきて、実忠は中を覗《のぞ》こうとしたのだが、しかし、門が堅く閉まっている。  どうしたものかと実忠が思案していると、門が開いて、下人らしき男たちが、戸板に菰《こも》を被せたものを屋敷から運び出してゆく。  すぐに決心をして、実忠はその後を尾行《つ》けた。  下人たちは、戸板に菰を被せたものを、鴨川まで運んでゆき、河原に置いた。すでにそこに用意してあった薪《まき》をその周囲に積みあげて、火を点《つ》けた。  薪が燃え、そのうちに、何やら肉の焼けるような臭いが漂ってきた。  火を点けられると、人の屍体は、火で炙《あぶ》られている魚のように、自然に身をよじったり、身体を反らせたりする。  戸板の上のものもそうであった。  炎の中でじりじりと焼かれ、それは身を強張《こわば》らせたり、身体を突っ張らせたりし始めた。被せてある菰にも火が点き、その菰を跳ねのけるようにして、屍体が中で腕を動かすのである。  菰がずれ、その下から人の手がはっきりと見えた。そこでようやく実忠は、河原で焼かれているものが、屍体であったのかと腑《ふ》に落ちたのであった。  おりを見て、実忠は、下人のひとりに近づいてゆき、 「何を焼いているのかね」  そう問うた。 「さあねえ」  とぼける下人たちに、銭を握らせて、 「教えてくれぬか」  さらに問えば、下人は声をひそめて、 「実は、昨夜、お屋敷の姫が亡くなられたのだよ」  というではないか。 「綾子殿が!?」 「おう。知っているのか。その綾子さまが昨夜、亡くなられたのだ」 「まさか、今焼いているそれが綾子さまではあるまいな」 「いいや」  下人は首を左右に振って、 「陰陽師《おんみようじ》さ──」  そう言った。 「何だって、陰陽師をこんなところで焼かなくてはならないのだ」 「ここで焼けば、焼いたまま放っておけばよいからな」 「放っておく?」 「面倒がなくていいということさ。お屋敷で焼けば、煙は出るわ、臭いはするわで、騒ぎがもっと大きくなるではないか」  下人のひとりが言えば、 「どうせ、どこぞで見つけた旅の陰陽法師だ。もともとこの法師がもっと験力を持っていればこんなことにはならなかったのだ」  もうひとりの下人が言った。 「どうして、陰陽法師がお屋敷にいたのだ。お屋敷でいったい何があった?」  実忠が問えば、下人たちは顔を見合わせて押し黙った。 「これ以上は言えないね」 「綾子殿が、誰ぞに呪詛を掛けられていたということなら、こちらも知っている。何があったのかを話してくれぬか──」  さらに銭を渡すと、ようやく下人たちは重い唇を開いた。 「いや、この陰陽法師は、呪詛されている綾子さまの身を守るため、三日前に綾子さま御本人が捜してきた旅の陰陽法師さ──」 「ほう」 「しかし、この陰陽法師がいくら祈ってもどういう験力も現れない──」  姫の顔はますます崩れてゆき、髪の毛もぞろりぞろりと抜けてゆく。 「で、昨晩、ついに綾子さまを呪詛していた鬼が姿を現したのよ」  ひとりの下人が声を高くすると、 「いや、あれは鬼ではない。人間の女であろう──」  もうひとりの下人が別のことを言う。 「鬼だ」 「いや、人間の女であった」  下人たちの間で言い争いが始まってしまった。 「どちらでもよい。その女か鬼が姿を現して、それでどうしたのだ」  実忠が問う。 「凄い力の鬼でな。門を蹴破り、蔀戸《しとみど》を打ち破って、中へ入ってきたのさ──」 「ああ、おれはそこにいたが、それはそれは怖ろしい姿だったな」 「貌《かお》はまっ赤。赤い破れた衣《きぬ》を身に纏《まと》い、頭には、脚に火を灯した五徳を被っていたではないか──」 「気狂《きふ》れ女そのものであったぞ」  口々に下人たちが言った。 「それで?」  その女、あるいは鬼は、綾子さまの寝所までやってくると、寝床の前で祈祷《きとう》していた陰陽法師が、怖さのあまり這《は》って逃げようとするのを、右足で蹴って仰向けにし、その腹を無造作に踏んだ。  腹が潰《つぶ》れ、その陰陽法師は口と尻からはらわたをひり出して死んでしまった。  それを見ていた綾子は、怖ろしさのあまり、 「あれえ」  声をあげて逃げようとした。  しかし、数歩もゆかぬうちに、後方からむずと髪を掴《つか》まれた。  髪の毛ごとぐいと後ろにひかれ、顎をあげてのけぞったところを、今度は頭を別の手で掴まれていた。 「あら憎らしやこの女。我が夫《つま》ばかりか、琵琶までも──」  鬼とも見ゆるその鉄輪を被った女の眼が、左右に吊りあがった。 「思い知れい!!」  綾子の首が、めりめりと音をたてて回りはじめた。  一度──  二度──  三度──  自分の首が回転している間、綾子の身体は、手足を右に左に振りながら、奇妙な踊りを踊った。  どう、  と、首のなくなった胴が床に倒れ、そこで綾子の手足が痙攣《けいれん》するようにばたばたと床を叩いて踊った。  下人たちは、もう逃げるのも忘れてその光景を見ていた。  見たくなくとも、視線をそこからそらすことができないのである。  女の眼から、血の涙が頬を伝い、床に落ちた。  さめざめと声をあげて哭きながら、女は赤い舌で、手に持った綾子の顔を舐《な》めあげた。 「おう憎らしや、おう恨めしや……」  頬肉に歯をあて、眼玉を音をたててすすった。 「ひいっ」  高い声をあげて、女は叫んだ。  ねじ切った綾子の首を抱えたまま、女は、おうおうと、悦びの声とも泣き声ともつかぬ声をあげた。  下女や下人たちが、恐怖から我に返った時、女の姿は、もう、どこにもなかった。     三 「かようなる話を下人たちから訊き出しましたので、とるものもとりあえず、こちらに参上して、御報告もうしあげた次第でござります」  実忠は、晴明と博雅に向かってそう言った。  実忠が口をつぐんでも、博雅はしばらく言葉もなかった。 「なんと……」  博雅は、抑揚を殺した声でそうつぶやいた。 「琵琶とか何とか、女は口にしていたと言ってましたね」  晴明が言った。 「はい」  実忠がうなずく。  博雅は、今、言葉もない。 「どういうことなのでしょう」  晴明が訊いた。 「そうでした。その琵琶のことについて、お話しもうしあげるのを忘れておりました」 「何かあったのですね」 「ええ。わたしも琵琶のことが気になりましたので、下人たちに、何か覚えはないかと訊きましたところ、ひとりの下人が、ひとつ思いあたることがあるというのです」  その下人が語るには、 「たしか、ふた月ほども前であったかと思われるのですが、琵琶のことで、妙な女がやってきたことがござりました……」  その日の午後──  何を思ったか、綾子が、珍しく、琵琶を弾きたいと言い出した。  さっそく下女のひとりが琵琶を持ち出して用意を整えると、綾子は琵琶を抱えてこれを弾きはじめた。  琵琶がよいのか音はたいへんにいいのだが、しかし奏者としての腕は、綾子はお世辞にもうまいとは言えなかった。打つ絃をしばしば間違え、間違わぬおりでも打つ間が悪かった。  屋敷の簀《すのこ》に毛氈《もうせん》を敷き、そこに座して琵琶を弾いていたのだが、その時、にわかに外の方が騒がしくなり、やってきた下人が言うには、ひとりの女が訪ねてきて、屋敷の中へ入れてくれと言っているというのである。 「ただいま、外を歩いておりましたれば、たまたまお屋敷の中より琵琶の音が響いてまいりました。たいへんによい音であり、このような音を出す琵琶は、はたしてどのようなものか、ぜひ拝見させていただくわけにはいかないでしょうか」  このように言っているという。 「いかがいたしましょうか」  綾子に問えば、 「放っておきなさい。その女を屋敷内に入れてはなりませぬぞ」  と言う。  下人は、言われた通りに適当にあしらって、その女を追い返してしまった。  それではと、あらためて琵琶を弾いているところへ、いったいどうやって入ってきたのか、件の女が庭先へ姿を現した。 「聴き慣れた音に、思わずお屋敷の内に入ってしまいましたが、見れば、その琵琶まさしく�飛天�──」  女はそう言った。  手を止めた綾子を、庭先からしげしげと見つめ、 「さてこそは、済時どのより、その琵琶せしめたは、そなたであったか」  そのように女は言った。  女は、綾子の腕の中の琵琶を見つめ、 「それなる琵琶は、亡き我が父母《ちちはは》の形見。それが何故《なにゆえ》にそなたの手に……」  声を震わせて問うた。 「はて、何のことを言っているのか、私にはとんとわかりませぬ」  綾子は、簀から、庭の女に声をかけた。 「これなる琵琶は、たしかに藤原済時さまよりいただきしものなれど、あなたからせしめたなどと言われるのは慮外でござります」 「やはり、済時殿よりそなたに……」  女は、しゃべっている途中で声をつまらせ、言葉を途切れさせた。眼を伏せ、唇を噛んで沈黙した。  首を、小さく左右に振り、 「ああ、あさましや……」  細い声でつぶやいた。 「なつかしき琵琶の音を耳にし、思わず庭の中まで忍び入ったれど、なんともおろかしい姿を、よりによって、そなたの前にさらしてしまったことか……」 「───」 「お恨みもうしあげまするぞ、済時殿……」  女は、眼から涙を溢《あふ》れさせた。  女の年齢は、三十路《みそじ》を幾らか越えたくらいであろうか。涙を滲《にじ》ませた眼尻には小皺も見えている。  綾子は簀の上から、女を見下ろしていたが、女の言葉が途切れるのを待って、口を開いた。 「他人《ひと》の屋敷に入り込んできて、いきなりそのようなことを言われても、こちらには何のことやら見当もつきませぬ」 「───」 「なんとも、気持ちのおさまりどころがござりませぬなあ」  綾子は琵琶を持ったまま立ちあがった。 「この琵琶、済時さまよりいただいて気に入っていたものなのですが、何やら急に冷めて欲しゅうなくなりました」  綾子は、ふくよかな頬を、赤く染めて言った。  歳は十八歳。  髪は黒々と艶《つや》やかに伸び、唇も赤くふっくらとしている。  凜《りん》とした瞳で女を見やり、 「それほどに気になりますのなら、この琵琶お持ち返りになられたらよろしいでしょう」  そう言った。 「琵琶をお返し下さると?」  女が言うと、綾子は高い声をあげて笑った。 「返すといつ言いました。返すのではありません。捨てるのです」 「捨てる?」 「よい音も出ませぬ。この琵琶、壊れております。壊れておりますれば、捨てますので、その後、そなたがそれを拾ってどうしようと、それは勝手じゃ……」  言い終えるなり、綾子は両手で琵琶の首を掴み、上に持ちあげ、力を込めて、それを打ち降ろした。  簀の欄干に、琵琶が当たっていやな音をたてた。  綾子は、琵琶を庭へ放り出した。  琵琶は、女の足元に落ちた。 「なんということを──」  女は、膝を突き、琵琶を抱えあげた。  螺鈿《らでん》紋様《もんよう》の入った腹板の部分が裂け、紫檀《したん》の槽《そう》の部分も大きく割れていた。  女は、地に膝を突き、琵琶を抱えたまま綾子を見あげた。 「お好きになされませ」  綾子は言った。  憐れむような眼で女を見やり、 「あなた、もしもわたしが済時様を捨てましたらば、そのように拾われるおつもりですか──」  そう言った。  女が何か言いたそうに唇を震わせたが、その唇が開くのを待たずに、綾子は背を向けて奥へ入ってしまった。  女は、両の袖で、壊れた琵琶を包むようにして抱え、無言で門より外へ出て行った── 「このようなことがあったのだと、下人のひとりが申しておりました」  語り終えて、実忠が言った。 「螺鈿紋様の入った琵琶だと言っていたが、その紋様、何であるかはわかるのか」  博雅は、思うところがあるらしい様子で実忠に訊いた。 「何でも、翼を広げた鳳凰《ほうおう》と天女《てんによ》がそこに描かれていたそうです」  実忠が答えると、博雅は、 「むう……」  低く呻《うめ》くように声をあげた。 「晴明よ、今の話の中に出た琵琶というのは、これは、昨夜、蝉丸殿が持ってこられたあの琵琶のことではないか……」  博雅の声は震えていた。 「うむ」  晴明がうなずいた。 「すると、綾子殿の屋敷へ、琵琶の音を聴いてやってきた女も、蝉丸殿のもとへ琵琶の供養をしてくれと言うて現れた女も、同じ女ということになる……」 「そうだな」 「それは、つまり、その女が、貴船の宮へ丑の刻参りして、厭魅の法を行っていた五徳の女ということではないか──」 「ああ──」 「その女が、綾子殿の首を……」  博雅の言葉に、 「博雅さまは、すでに、その女のことも琵琶のことも御存知であったのですか」  実忠が訊いた。 「多少は……な」  苦しそうに、身をよじりながら、博雅は言った。 「と申しますると──」  さらに問おうとする実忠に、 「実忠殿──」  晴明が声をかけた。 「はい」  実忠が、晴明に向きなおった。 「急ぎ、頼みたいことがあります」 「何でしょう」 「茅《ち》を集めてきていただきたいのです」  晴明は言った。  茅つまり萱《かや》のことである。 「茅を?」 「そうですね。束ねて、ちょうど人の身体の大きさほどもあればいいでしょう」 「それをどういたしますか」 「できるだけ早く藤原済時殿のお屋敷まで届けていただけませんか。早ければ早いほどいいでしょう」 「おまかせ下さい。他に御用のむきがなければ、ただちに──」  実忠は軽く頭を下げると、 「では──」  そう言って、ふたりに背を向け、姿を消した。 「晴明……」  顔から、血の気の失せた博雅が言った。 「だいぶ急いでいるようだが、それほど急を要するのか──」  博雅が訊いた。 「おそらくな」  晴明はうなずき、 「たぶん今夜だろう」  そう言った。 「今夜?」 「五徳の姫は、今夜にも済時殿のところへやって来るだろうよ」 「じきに陽も暮れるではないか。すぐに夜になるぞ」 「だから、実忠を急がせたのだ。しかし、夜とは言っても、姫がおいでになるのは丑の刻であろうから、そこそこには用意を整えてから、今度《こたび》のいきさつについて、済時殿からひと通りの話をうかがうくらいは時間もあるだろう」  しかし、陽はすでに大きく傾いており、山の端《は》に半分隠れようとしていた。晴明の庭に鳴く秋の虫の音が、その数を増している。 「今夜は、たいへんな夜になるであろうな」 「そんなに危ないのか」 「うむ」  晴明はうなずいた。  晴明は庭を見やり、右手の人差し指と中指二本をそろえ、それで、左の掌を小さく三度叩いた。 「跳蟲《はねむし》よ、出て来なさい」  晴明が言うと、秋の草の中からのっそりと濡れ縁の下に這い出てきたものがあった。蝦蟆《かえる》であった。 「跳蟲?」 「寛朝僧正《かんちようそうじよう》殿のところからいただいてきた蟇《ひき》さ」  晴明が手を伸ばせば蝦蟆は跳ねてその上に乗ってきた。  その蟇を狩衣《かりぎぬ》の袖の中に入れ、 「さて、用意はできたぞ、博雅」  晴明は言った。 「ゆくか」  問われて、博雅は、唇を震わせた。 「どうする?」  晴明が言った。 「う、うむ」  石を吐くように、博雅はうなずいた。 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。     四  ほとほとと、晴明と博雅を乗せた牛車《ぎつしや》が、都大路を進んでゆく。  牛を曳いているのは、美しい唐衣《からごろも》に身を包んだ女であった。  満月に近い、歪《いびつ》な月が東の空に昇っていた。その月が、牛と牛車の影を地に落としているのに、女の影は地にはない。  晴明の使う式神《しきがみ》の蜜虫《みつむし》である。  微風の中に、秋だというのにほのかに藤の香《か》が漂っているのは、蜜虫が藤の精霊だからである。  地に足が着いているのか、いないのか、女の足取りは、空気を踏むようになめらかであった。  陽が落ちて、しばらくたってはいるが、まだ西の山際の空がほんのりと明るい。  博雅は、布に包んだあの琵琶を両膝の上に抱えていた。  何か、痛いものにでも耐えているように、博雅は口をつぐんでいる。  しかし、やがて、その痛みに耐えかねたように、博雅が口を開いた。 「いや、それにしてもなあ……」  牛車の中で、独《ひと》り言のように博雅はつぶやいた。 「どうしたのだ、博雅──」  晴明が問う。 「丑の刻参りのことさ──」  心の中に浮かんでいるものを、振り捨てるようにして、博雅は言った。 「うむ」 「貴船の神が、どうして、悪しき技をもって人の呪に力をかしたり、人を鬼にしたりするのであろうな」 「まるで、五徳の姫が、もう、鬼に変じてしまったような口ぶりではないか、博雅──」 「そうではないのか。門を破り、蔀を打ち破って中に入ってくるなど、なまじの人の力ではできぬことだぞ」 「ま、その姫が鬼であったにしろ、なかったにしろ、神が人を鬼にするのではないぞ」 「ほう……?」 「博雅よ、人は自ら鬼になるのだ。鬼にならんと願うのは人よ。貴船の|高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《たかおかみのかみ》も|闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神《くらおかみのかみ》も、人にわずかの力を貸すにすぎぬ」 「……うむ」 「よいか、博雅。神とは何だ」 「神?」 「神とはな、煎《せん》じつめれば、結局、ただの力なのだ」 「力?」 「その力に、高※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神だとか、闇※[#「雨/(口口口)/龍」、unicode9f97]神だとかの名をつけたもの──つまり呪をかけたものが神なのだよ」 「───」 「貴船の神は、水神だそうな」 「うむ」 「その水は善か、悪か?」 「わからぬ……」 「田に雨をもたらす時、水は善だ」 「む」 「しかし、その雨が降り続いて人の里まで押し流すとすれば、この水は悪であろう」 「むむ」 「しかし、水の本然《ほんねん》は、ただ水であるばかりであり、それを善であるとか悪であるとか言うのは、人の側にその善も悪もあるからなのだよ」 「むむむ」 「貴船の神が、祈雨と止雨、そのふたつを司《つかさど》っているのはそのためよ」 「うむ」 「鬼もまた同じぞ」 「鬼は神ではなく人が生んだものだということか」 「そうだ」  晴明はうなずき、なんとも言えない表情で博雅を見つめた。 「博雅よ。おそらくな、この鬼あるからこその人よ。人の心に鬼が棲《す》むからこそ、人は歌を詠むのだ。鬼が心にあらばこそ、人は琵琶も弾き、笛も吹く。人の心から鬼が消え去る時は──」 「消え去る時は?」 「人もまたこの世からいなくなるであろうよ──」 「本当に?」 「人と、鬼とは、ふたつにわかつことができぬものだ。人あらばこその鬼で、鬼あらばこその人なのだよ」 「───」 「博雅よ。これは、五徳の姫だけではない。人は誰でも、時に、鬼になりたいと願うことがあるのだよ。誰でも皆、心には鬼を棲まわせているのだ」 「すると、晴明よ、鬼は、おれの心の中にも棲むというのか」 「うむ」 「おまえの心の中にも棲むというのか」 「ああ、棲む」  言われた博雅は沈黙した。  やがて、しみじみと息を吐き、 「哀しいものだなあ」  溜め息をついた。  その時──  牛車がその動きを停めていた。  済時の屋敷に着いたかと一瞬博雅は思ったが、それにしては、まだ、少し時間が早すぎた。 「晴明さま、お客人が……」  外から蜜虫が声をかけてきた。 「ほう、客人とな」  晴明はうなずいた。 「誰なのか」  博雅は、簾《すだれ》を持ちあげて外をうかがうと── 「法師か」  声を低めて言った。  視線をこらして見れば、牛車の正面に人が立ち、こちらをうかがっている様子である。  法師姿の老人のようであった。  着ているものは襤褸屑《ぼろくず》のようであり、髪は蓬髪《ほうはつ》で逆立つように、ぼうぼうと頭の上に繁っている。  老法師は炯炯《けいけい》と光る眼を向け、 「晴明、おるか──」  低くそうつぶやいた。  その声は、牛車の中まで届いてきた。 「おれに用事か!?」  晴明は腰をあげた。  牛車から外へ出て、夜気の中に立った。 「おう、やはり居たかよ、晴明──」  老法師は言った。  晴明は、にこやかに笑いながら足を前に一歩踏み出し、 「これはこれは蘆屋道満《あしやどうまん》殿。いかなる用事でござりまするか──」  そう言った。  晴明の前に、蘆屋道満が立っていた。  月光が、道満の髪にも、薄汚れた僧衣にも染み込んで、妖《あや》しく朧《おぼろ》な光を放っているようであった。 「藤原済時の屋敷へゆくつもりなのであろうが──」  道満は言った。 「さすがによく御存知でございますね」  晴明の赤い口元には、まだほんのりと笑みが残っている。 「やめておけい……」  道満は、硬い石を口から吐くように言った。 「はて、何のことでしょう」 「誰ぞに呪詛されている済時を助けようとでもいうのだろうが、捨ておけい。所詮《しよせん》人の世のことではないか。われらが関わりを持つべきことではない──」 「ははあ──」  晴明の口元が、またほころんだ。 「やはりあなたさまでしたか、道満殿」 「何のことだ」 「この件、どなたかが裏で関わっているとは想っておりましたが、それが蘆屋道満殿であったとは──」 「ほほう、気づいておったか」 「まさか、道満殿であるとまでは思っておりませんでしたが、誰か、五徳の姫に丑の刻参りの智恵を授けた者がいるであろうとは考えておりました」 「いかにも、あの女にそれを教えたはわしよ」 「あなたさまが、呪詛の手助けを?」 「いいや。わしは、呪詛までは手伝うてはおらぬ。わしがやったは、貴船の宮へ丑の刻参りせよと女に教えたそのことだけよ」 「なればほっといたしました。道満殿がかけた呪詛を相手にするのでは、骨がおれますのでね」 「晴明よ、捨ておけい……」  道満はつぶやいた。 「捨ておく……?」 「人が、鬼になろうという時に、それを止める術《すべ》があるか」  問われて、晴明は真顔になり、 「ありませぬ……」  そう答えた。 「だからよ、人のことには関わるな」  道満が言うと、晴明は、また笑った。 「何がおかしい?」 「人のことに関わるなと言っておられる道満殿御本人が、よほどこのことには関わっておられるのではありませんか」  言われた道満の口元に、はじめて微《かす》かな笑みが浮いた。  哀しげな笑みであった。  道満は、月を仰ぎ、 「あれは、文月《ふづき》の初め頃でもあったか……」  独り言のようにつぶやいた。 「このような月の明かりける夜、堀川小路の辺りをそぞろ歩いておった時のことよ。笛の音《ね》が聴こえてきた……」 「ほう、笛が──」 「よい笛であった。その音に誘われるように進んでゆくと、ひとりの女が歩いてゆくのに出会ったのだが、しかしよく見れば、その女、生《い》き霊《すだま》であった……」 「それで?」 「その生き霊もまた、笛の音に惹《ひ》かれるように歩いているのでな。奇妙に思うて後をつけたら、堀川橋で笛を吹いている男がいた。それが、ほれ、その男よ──」  道満は、晴明の後方に、光る視線を向けた。牛車から降りてきた源博雅がそこに立っていた。  博雅は、言葉もない。 「博雅……」  晴明は、低く声をかけた。  博雅は、うなずくように小さく顎をひいて、半歩足を踏み出し、晴明の横に並んだ。  道満を見やり、 「あの晩、あそこにおいでになっていたのですか……」  博雅は、硬い声で言った。 「うむ、いた……」  道満がうなずいた。  あの時── �お助け下さいまし、博雅さま……�  女の生霊《いきりよう》は、哀願するようにそう言って、姿を消したのである。 「ぬしには姿が消えたように見えたであろうが、あれは、その時女の本体が眼を醒《さ》ましたからよ──」 「───」 「あれは、女が眠っている間に、その霊《すだま》が身体から離れて外をさまよったものだ」 「で、いかがなされたのですか」  晴明が道満に訊いた。 「わしには、もどってゆく女の生き霊が見えたのでな。おもしろ半分にその後をつけたのさ……」  道満は言った。  女の生き霊は、堀川小路を下って五条辺りまでやってくると、近くの屋敷の土塀の中に姿を消した。 「人が住むとは思えぬような、荒れた屋敷であったよ……」  そうして、道満は、眼醒めた女と出会ったのだという。  眼醒めてみれば、眼の前に、汚ないなりをした奇怪な老僧がいる。  しかし、女は、その道満を見ても驚かなかった。 「かえって、そこで女にすがられてしもうたのさ」  道満は言った。 「すがられた?」  晴明が訊いた。 「おう」  低くうなずいて、道満は語った。  女は、眼の前の老人をあらためて見やった。 「貴方様は、いったいどういうお方なのですか」  女が訊いてきた。 「陰陽法師の道満よ」  道満が答えれば、 「陰陽法師さまなれば、たとえば人を呪詛する方法も、色々御存知なのでしょう」 「ま、ひとつふたつはな」 「お願いがございます」  女は、そこに両手をついた。 「何だ」 「そのうちのひとつをわたしにお教え下さいまし」 「なんだと?」 「憑《と》り殺したいお方がいるのでござります」  そういう女の唇から、青白い冷たい炎がめろめろとこぼれ出てくる。女の貌《かお》に、悽愴《せいそう》の気が宿って、おそろしいほどに美しい。 「心が動いた……」  ぼそりと、道満は晴明に言った。  長い沈黙があった。月光の中で、道満は唇を閉じ、そのおりのことを思い出しているようであった。 「で、貴船の宮に丑の刻参りせよと──」  晴明が言った。 「うむ」  道満がうなずいた。 「哀れな女であった……」 「姫の事情は、御存知なのですか」  晴明が問えば、道満はうなずき、 「しかし、それは今夜済時の口から聴くがよい」  そう言った。 「もう、お止めになりませぬのか──」 「止めぬ。ゆくがよい」 「よろしいのですか」 「かまわぬ」 「ひとつうかがわせて下さい」 「おう、なんだ」 「件の姫が、今どこにおいでになるかはわかりませぬか」 「わからぬ……」  と道満は言った。 「あれは、もう、我が手にはおえぬ」 「ほう……」 「会うて、なんとする晴明。会うて呪法をやめさせることはできよう。場合によっては、女を殺すこともできよう。しかし、それはそれだけのこと。心までは……」 「心までは?」 「晴明よ、人に関わるということは、それは哀しみに関わるということぞ」 「───」 「久しぶりに、夢を見たわ……」 「道満殿……」  晴明は、いつにない優しい声で道満の名を呼び、 「姫に惚れられましたか」  訊ねた。  道満は答えない。  かわりに、低い声で道満はくつくつと笑った。 「理をもってあの女を諭すか、晴明──」  道満は言った。 「諭すことができねば、女を調伏《ちようぶく》するか。我らにできるのは、所詮その程度のことだ。どうだ晴明、ぬしならあの女をなんとする──」  まるで、道満は、晴明になんとかしてくれと哀願しているようにも見えた。  道満は、また、低い声で笑った。 「馬鹿な男よ、晴明。人に関わりおって……」  道満は、そう言って背を向けた。  からからと笑いながら、道満の背が遠ざかってゆく。やがて、道満の姿が消えた。  晴明が、傍らを見やれば、そこに呆然《ぼうぜん》として博雅が立っている。  博雅の顔からは、血の気が失《う》せていた。  微かに、博雅の身体が震えている。 「晴明……」  博雅が、消えそうな声でつぶやいた。 「もう、とっくにわかっていたのだろう、博雅──」  晴明は言った。 「ああ──」  博雅は、喉《のど》に声を詰まらせるようにしてうなずいた。 「おまえの言う通りだよ、晴明。おれは、わかっていた。実忠の話を聴いた時から、おれにはわかっていた」 「───」 「あの、堀川橋の姫が、藤原済時殿を呪詛していたのだとな。おまえだって、わかっていたはずだろう、晴明──」 「ああ、わかっていたよ」 「何故、言わなかった?」  問うてから、博雅は首を左右に振った。 「いや、わかっているよ、晴明。わかっているのだ。おまえは、おれのためを思ってそれを口にせずにいてくれたのだ」 「───」 「おれは、怖かったのだよ。藤原済時殿を呪詛していたのが、あのお方であったのかと口にするのが怖かったのだ」  博雅は、肉体を襲ってくる痛みに耐えてでもいるように身をよじり、 「この琵琶を、あの時、女車《おんなぐるま》の中であのお方がお弾きになられていたのだ……」  持っていた琵琶を、博雅は抱き締めるようにして言った。  博雅は、泣き出す寸前の子供のような顔を晴明に向け、 「なんとかならぬのか、晴明──」  絞り出すような声で言った。 「なんとかとは?」 「だから、なんとかだよ。なんとかならぬのか──」 「わからぬ」 「何故だ。何故わからぬ、晴明──」 「おれが今約束できるのは、済時殿のお命をお助け申しあげるということくらいなのだよ。他のことは、どういう約束もできぬのだ──」 「もしも、おまえが、済時殿のお命を守ると、それを呪詛していた姫はどうなる?」 「───」 「清明、どうなのだ」 「すまぬ、博雅。今、おれに言えるのは、できるだけのことをするという、それだけだ。あとは、どういう約束もできぬのだよ。呪詛を返すのはやめる。何か、別の手だてを考えよう」 「むう」 「それとも、ゆくのをやめるか。このまま帰って、酒でも飲むか、博雅よ……」  博雅は泣きそうな顔で晴明を見、 「わからん、どうしたらいいのだ」  悲痛な声をあげた。 �お助け下さいまし、博雅さま……�  その声が耳の奥に残っている。 「どうする」 「む、むむ」 「ゆくか──」 「ゆ、ゆく……」  博雅は、こわばった声で言った。 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。 [#改ページ]    巻ノ六 生成り姫     一  藤原済時《ふじわらのなりとき》は、血の気の失《う》せた顔で、晴明《せいめい》と博雅《ひろまさ》の前に座していた。  人払いがしてあるため、そこにいるのは三人だけである。 「おそろしいことになりました……」  済時の声は、微《かす》かに震えている。  綾子《あやこ》がどのようなことになったのかは、すでに済時の耳にも届いているのであろう。 「まさか、あのようなことになりましょうとは──」  済時の視線は定まらない。  哀願するような眼で晴明を見ていたかと思うと、次にはその視線は自分の後ろに向けられ、次には庭へ向けられる。今にも、背後から、あるいは庭から、恐ろしい鬼が、自分を啖《くら》おうと出てくるのではと思い込んでいるようであった。 「お気をつけ下さい」  晴明は言った。 「あまりに怯《おび》えますると、それだけ強く呪詛《ずそ》はその身にかかってまいりますれば──」 「う、うむ」  うなずいても、まだ済時の視線は動いている。 「綾子殿のお身に、昨夜、どのようなことがあったのかもすでに承知しております」 「そ、そうか」 「昨夜、綾子殿のところへやってきたものは、今夜は、おそらくは済時様のところへやってくるであろうと思われます」 「くるのか。こ、このわしのところへ」 「はい。やってくるとすれば、丑《うし》の刻──」 「た、助けて下され、晴明殿……」 「誰が済時様を恨んでいるのか、覚えがおありなのですね」 「あ、あります」 「幸いにも、まだ丑の刻には間があります。いったい、どのようなことがあったのかをお話しいただけますか」  話をしているのは、晴明である。  博雅は、晴明の横に座して、冷たい刃を胸の中に刺し込まれるのを耐えているような顔で、凝《じ》っと押し黙っている。  済時の屋敷に着く前に、牛車《ぎつしや》の中で晴明は博雅に問うている。 「よいのか、博雅──」 「何がだ?」 「済時殿に会えば、色々と、五徳の姫のことをお尋ねすることになる。そのおり、おまえが耳にしたくないような話もあることであろう。済時殿には、別の間を用意していただいて、おまえは──」 「かまわぬ」  晴明の言葉を遮《さえぎ》るようにして、博雅は言った。 「晴明よ、心遣いはありがたいが、あとで気を使われて、何か隠しごとをされるよりは、最初から何もかも耳にする方がずっとよい」  博雅はいった。 「それにだ。これは、おれがおまえに頼んだことなのだぞ。何があろうと、おれが逃げるわけにはいかないではないか」 「わかった」  晴明はうなずき、済時の屋敷の前で、ふたりは牛車を降りたのであった。  今、博雅は、蝉丸《せみまる》が持ってきたあの琵琶を布に包んだものを膝の上に抱えて、晴明と済時の話に耳を傾けているのである。 「お話しいたしましょう」  済時はうなずき、覚悟を決めた顔で、晴明を見やった。 「十二年ほども前のことです。想うお女《かた》があって、前々から文をやったり届けものをしたりしていたのですが、なかなか色よい返事をいただけませんでした。堀川小路の五条に近い辺りに屋敷があり、そこに住んでいた、徳子という姫でした……」  済時がその名を口にした時、博雅は大きく息を吸い込んで眼を閉じた。 「父は、さる宮の血を引く者で、太宰府《だざいふ》の大弐《だいに》などを務めたこともあったのですが、都へもどってきてから四年目、この姫が十八のおりに病で死んでしまったのです」 「母殿は?」 「父が死んだその年に、心労のあまり、やはり亡《むなし》くなりました」  没落貴族──  それでも、父親や母親が生きているうちは通ってきた人々も、次第に足が遠のくようになり、下僕の者たちもひとりふたりと去って、屋敷の中も荒れてゆく。  家財を売り、それを金に換えてなんとか日々の暮らしをたてていた。 「徳子姫に、兄弟はいらっしゃらなかったのですか?」 「弟がひとりおりまして、どうにか金をやりくりして大学に入れていたようですが、それもなかなかままならぬ様子のようでした。しかし、この弟も、ある夏に流行《はや》り病で亡《むなし》くなりました……」 「それはなんともお気の毒な──」 「この頃に、徳子姫のお屋敷に仕える老女房たちの中に手引きする者がありまして、ようやく、わたしは姫とお会いすることができたのです」 「それが、十二年前の夏だったのですね」 「はい」  済時はうなずいた。 「御様子では、姫にもひそかに想う方がおられたようなのですが、お逢いしたらばわたしを気に入って下さって、通うようになったのです」 「想う方とは、どなたかは姫はおっしゃられたのですか──」 「いいえ。その方については、姫は何もおっしゃられませんでした」  済時は言った。 「綾子姫とはいつから?」 「三年ほど前から通うようになりました」 「では、徳子姫の方は?」 「子供もできなかったせいか、五年ほど前から自然に足が遠のいてこの二年ほどは通ってはおりません」  済時からの届けものもとどこおるようになり、残っていた老女房たちも、自然に屋敷から出て行った。 「たしか、済時様は、このたびの相撲節会《すまいのせちえ》では、海恒世《あまのつねよ》殿のお世話をなさっておいででしたね」  晴明は話題をかえて言った。 「この三年ほどは、わたしが贔屓《ひいき》にしております」 「その前までは、たしか、真髪成村《まかみのなりむら》殿を御贔屓にしていたのではありませんでしたか」 「たしかにそうだったのですが、綾子が海恒世を贔屓にしておりましたので、自然にわたしも──」 「ははあ、そういうことだったのですか」  晴明はうなずき、居ずまいをあらためて済時を見やった。 「ところで、済時様には、いまひとつうかがいたいことがあるのですが……」 「何なりと──」  すでに、心を決めているせいか、何でも話す覚悟が済時にはあるようであった。 「源博雅様が、ただいまお持ちになっているものに、お心あたりはございませぬか」  晴明は言った。  言われた博雅は眼を開き、抱えていた包みをほどいて、中の琵琶を取り出した。  それを見るなり、済時は声をあげた。 「おう……」 「覚えがおありなのですね」 「はい。これは、�飛天�という琵琶です。たしか、綾子が持っていたはずなのですが、どうしてこれがここに──」 「おっしゃる通り、たしかにこれは、綾子様がお持ちになっていたものですが、その前はどなたがお持ちになっていたのですか?」  問われた済時は、言葉を喉の奥に詰まらせて、口ごもった。 「言い難《にく》いことなのですか」 「はい。わたしの恥をさらすことになりますが、申しあげましょう」  済時は、口の中の唾を飲み込み、 「これは、もともとは、徳子が手にあった琵琶でございます」  語りはじめた。 「わたしが徳子の許に通っておりました頃、おりにふれて徳子が弾いてくれたのがその琵琶でございました。姿もたいへんに美しく、音もよかったので、よく覚えております」 「それが、どうして綾子様のもとに?」 「わたしもその琵琶がたいへん気に入りまして、何年か前、清涼殿にて歌合《うたあわせ》がありましたおりに琵琶を弾くことになって、徳子より�飛天�を借り受けたのでございます」  それをそのまま手元に置いていたのだという。 「綾子のところへ通うようになって、ある晩に�飛天�を持ってゆき、弾いたことがありました。その時に、綾子が�飛天�をたいへんに気に入ってしまったのです」 「綾子様も琵琶をお弾きになられたのですか」 「いえ、綾子は琵琶の腕はさほどではありません。綾子は�飛天�の美しさに心を奪われたのです」 「綾子様が、�飛天�を欲しいとおっしゃられたのですか」 「ええ。ぜひとも手元に置きたいとせがまれまして──」 「綾子様は、この琵琶が徳子姫のものであると御存知だったのですか」 「いえ。知らなかったと思います。薄々は気づいていたのかもしれませんが」 「ほう──」 「これは、さる方からお預かりしているものであるから、おまえにやるわけにはゆかぬと言ったのですが……」 「綾子様がきかなかったのですね」 「ええ。綾子は、欲しいものがあると、どうしてもそれを手に入れねば気がすまぬところがありまして。どうしてもとせがまれて──」 「で、さしあげてしまったのですか」 「はい。持ち主からわたしが琵琶を買いとったということにいたしまして──」 「徳子姫には、そのことは……」 「綾子にくれてやったとはとても言えるものではありません。まことに身勝手なことに、わたしは、嘘をついてしまったのです」 「なんと?」 「琵琶は盗まれてしまったと」 「ほう」 「良い琵琶でありましたので、盗人《ぬすびと》が誰ぞに高く売りつけようとして盗んだか、従僕の者たちが持っていったか、良い楽器は鬼が好むというから、あるいは鬼が盗んだものかと……」  もとの女が大切にしていたものを、嘘をついて、新しく通うようになった若い女にくれてやってしまったことになる。 「ひどいことをいたしました」  済時は、やつれた声で言った。 「徳子姫は、綾子様のことは、御存知だったのですか」 「わたしの口からは言いませんでしたが、風の噂には、わたしが綾子のところに通うようになっていたことは、知っていたと思います。徳子の下僕の者たちが、あちらこちらで噂を聞き集めておりましたので……」 「そういうことがあったのですか」 「晴明殿──」  あらたまった口調で、済時は言った。 「何でしょう」 「わたしの口から言うのもおかしいのですが、こういうことで、人は鬼になるのでしょうか──」 「鬼に?」 「男が、新しい女のもとに通ったり、また逆に、女が新しい男に通われるようになったりというのは、ままあることです」 「はい」 「そういう度に、人は鬼になるのですか──」 「ならぬともうしあげれば、安心いたしますか──」 「わかりません。しかし、わたしには、あの徳子が鬼になって、綾子の首を取っていったということが、まだ信じられないのです」 「済時様──」 「はい」 「どのような人であれ、人に心の全てを見せるわけではありません。また、見せられるものでもありません」 「───」 「時には、当人にもわからぬような心の淵《ふち》が人にはあるのです」 「はい……」 「その淵に、人は誰でも鬼を棲《す》まわせているのです」 「誰でもですか」 「はい」 「あの徳子の心の中にも棲んでいたと?」 「そうです」  晴明はうなずいた。 「鬼になるというのは、意志によるのではありません。たとえ望んだとて鬼になれるというものではなく、望まないからといって鬼にならないというものでもないのです……」 「───」 「それしか方法がない時、他にどのような術《すべ》もなくなった時、なるべくして人は鬼になるのです」 「晴明殿、わたしはどうすればよいのでしょう」 「わたしが話をうかがってから、事があまりにも早く起こってしまいました。ひとまず、今夜をしのぎましょう」 「しのぐことができるのですか──」 「なんとか」 「どのようなことをすればよろしいのですか──」  問われて、言葉に窮したように晴明は口をつぐみ、博雅を見やり、そしてまた視線を済時にもどした。 「よい方法が、ひとつだけございます」 「なんでしょう」  済時が、身を乗り出した。 「まだ、もうしあげておりませんでしたが、琵琶のこと、徳子姫は御存知です」 「と言いますと?」 「済時様が、琵琶を綾子様にさしあげてしまったこと、御存知です」  晴明は、実忠が下人から聴いてきた話を済時に告げた。綾子が琵琶を叩き壊した一件のことである。 「そのようなことがあったのですか」  済時は、さらに顔を曇らせた。 「徳子には知られたくなかった。なんとも傷《いた》ましいことです。徳子にはもうしわけなかった」 「それを、徳子姫にもうしあげられますか」 「徳子に?」 「さきほど、ひとつ方法があるともうしあげたのはそのことです」 「───」 「どういう準備もいたさずに、済時様にはたったおひとりで、今夜、徳子姫をここでお待ちいただきます」 「独《ひと》りで?」 「はい」 「それでどうするのですか」 「徳子姫がいらした時に、今の話をつつみ隠さず姫にもうしあげ、心よりもうしわけなかったとおわびせねばなりません」 「それでよいのなら、話しましょう」 「それだけではありません」 「まだ、何か?」 「徳子姫に、まだそなたのことを自分は慕っているのだと言うことができますか」 「嘘ではなくてですか」 「はい。これは、心よりの言葉でなくてはなりません」 「それで、この生命が助かりましょうか」 「わかりません」 「わからない?」 「それは、済時様の言葉を聴いた時の徳子姫のお心次第です」 「───」  済時は、口をつぐみ、首を左右に振った。 「御無理ですか」 「必ず生命が助かるとあらば、どのようなことももうしましょうが、しかし、今はわたしの心は徳子から離れているのです」 「───」 「正直にもうしあげましょう。すまぬ気持ちも、哀れに思う気持ちもあるのですが、慕っているなどとは、とても言えませぬ。今はただ、徳子が恐ろしい気持ちでいっぱいなのです。我が身から出たこととはいえ、綾子の首を取っていった徳子をおそろしいとは思いこそすれ、慕う気持ちはもうないのです」  苦い、硬い小石を飲み込むような表情で、済時は言った。 「それでは、この方法はありません」 「ではどうすればよろしいのでしょう」 「わたくしに、考えがあります」  晴明は言った。 「どのような?」 「しばらく前に、実忠《さねただ》という男が運んできた茅《ち》がありますね」 「ええ」 「あれを使いましょう」 「茅を?」 「はい。そのために必要なものがあるのですが、お髪《ぐし》を少しばかりいただけますか」 「もちろんさしあげますが、どうするのですか──」 「済時様のお姿が、見えぬようにいたします」 「見えぬように? わたしの姿が?」  済時は、不思議そうにつぶやいた。 「見えぬのは徳子姫だけです。我々には済時様の姿は見えます」 「───」 「しかし、よろしいですか。そのためには、ひとつだけ約束してほしいことがあります」 「何でしょう」 「どのようなことがあろうとも、決してお声をたてないでいただきたいのです」 「声を?」 「はい。済時様が声をお出しになった途端に、術が破れてしまいます」 「すると、どうなるのですか」 「お姿が見えるようになって、危ういことになるかもしれませぬ」 「おお……」 「済時様御自身が、種をお蒔《ま》きになったことです。御辛抱を──」  晴明が言えば、 「わ、わかった」  済時は、覚悟を決めたようにうなずいたのであった。     二  晴明と博雅は闇の中で息をひそめている。  丑の刻には、まだいくらか時間があった。  藤原済時の屋敷──  今、この屋敷の中にいるのは、晴明、博雅と、そして済時の三人だけである。  金の屏風《びようぶ》が立てられ、その前に茅で作られた、人間ほどの大きさの人形《ひとがた》が、ちょうど人が座しているような|かたち《ヽヽヽ》で置かれている。  その人形のすぐ後ろ──屏風と人形とに挟まれたようなかたちで、済時は座している。  晴明と博雅は、屏風のすぐ後ろに隠れ、しばらく前から、徳子姫のやってくるのを待っているのであった。  人形の胸のあたりに一枚の紙が張られていて、そこに、筆で�藤原済時�と書かれていた。  人形の胴の中には、晴明が本人から手に入れた髪の毛と、爪が入っている。 「これで、徳子姫には、この人形は済時様に見えるはずです──」  人形をそこに置く時、晴明は済時にそのように告げている。 「この人形を使って、呪詛を返すつもりであったのですが、そうするわけにもゆきませぬので──」  呪詛を返せば、呪詛がそっくりそのまま徳子のもとへ返ってしまう。そうなれば、徳子の生命が危ない。  それで、晴明は�返し�を避けたのである。  今、闇の中で、晴明と博雅は凝《じ》っと動かずにゆるい呼吸を繰り返している。  闇をそろそろと吸い込み、そろそろと闇を吐く。  呼吸する度に、闇がだんだんと体内に溜《た》まってゆき、肉体の内側から、肉や骨、血までが闇に染まってゆくようであった。 「よいか、博雅よ」  晴明は、博雅の耳に息がかかる距離で、低く囁《ささや》いた。 「なんだ」  博雅が答える。 「我らのいる場所は、結界が張ってある。徳子姫がやってきた時、屏風の陰から顔を出して覗《のぞ》いても、徳子姫に悟られることはないが、しかし──」 「しかし、何なのだ」 「済時様にも言うてあるが、徳子姫が現れたら、声をたてるなよ」 「たてるとどうなる?」 「我らのいることが、徳子姫に気取《けど》られてしまう」 「それで?」 「気取られれば綾子姫のところの陰陽師《おんみようじ》のように、踏み殺されるか、あるいは首を持ってゆかれるか」  晴明が言うと、 「声はたてぬよ……」  低い声で博雅はうなずいた。  博雅の声には力がない。  晴明がそれを気づかって声をかければ、話の一部は、屏風の向こう側の済時の耳にも入ることになる。  それは、博雅の望むところではない。  晴明も、それは承知しているから、徳子と博雅の関係に触れるような言葉を発するのを避けているのである。博雅が、徳子と堀川橋で会っていたことは、済時には告げていない。  晴明は、懐から、栓のしてある小さな瓶子《へいし》を取り出した。 「これが酒ならば、一杯やることもできるのだが、そうもゆかぬ」 「何なのだ」 「水さ」 「水?」 「そうだ」 「何に使うのだ」 「色々とだ。実際に使うことになるか、使わぬことになるかは、まだわからぬがな」  それきり、また言葉は途切れた。  濃い闇の中で、そろりそろりと闇を吸い込み、闇を吐き出す互いの呼吸音だけが響く。  刻《とき》が、痛いほどゆっくりと過ぎてゆく。  博雅の肉体は闇と等質になってしまったようであった。  その時── 「来た」  低く晴明が囁いた。  みしり、  という床の軋《きし》る微かな音が、博雅の耳にも届いてきた。  鼠や猫でない、もっと重いものが床を踏む音だ。  人の重さがあって、はじめて床の板が沈み、板と板がこすれあい、音をたてるのである。  みしり、  みしり、  と、その音が近づいてくる。  博雅の横で、晴明は、低く呪《しゆ》を唱えはじめた。 「謹上再拝それ天開き地固まりしより此方《このかた》、伊弉諾《いざなぎ》伊弉冉《いざなみ》の尊天《みこと》の磐座《いわくら》にしてみとのまぐわい有りしより、男女の夫婦のかたらいをなし、陰陽の道長く伝わる──」  博雅の耳に、ようやく届くかどうかという、小さな声であった。 「それに何ぞ魍魎鬼神《もうりようきじん》妨げをなし、非業《ひごう》の命《めい》を取らんとや。大小の神祇《じんぎ》、諸仏菩薩《しよぶつぼさつ》、明《みよう》王部天童部《おうぶてんどうぶ》、九曜七星《くようしちしよう》二十八宿を驚かし奉り──」  茅の人形の前には、三重の高棚があり、その上に、青、黄、赤、白、黒、五色に染めた幣《へい》が立ててある。  床に、ただひとつだけ灯明皿が置かれ、そこにぽつんとあるか無きかの大きさの灯《ひ》が点《とぼ》っている。  その灯とは別の灯《あか》りが、濡れ縁の方角にゆらりと揺らめいた。  その灯りと共に、床を軋ませながら、そろりそろりと三人の居る間に入ってきた人影があった。  女──  ぼうぼうと、長い黒髪を逆立てた女であった。  顔に赤く丹《に》を塗り、破れた赤い衣《きぬ》を身に纏っている。鉄輪《かなわ》を頭に冠《かぶ》り、上に向いた三本の脚に、それぞれ蝋燭《ろうそく》をたてて、火を点している。  その炎が、女の顔を闇の中に浮かびあがらせていた。  吊りあがった眸《ひとみ》。  真っ赤に塗られた貌《かお》。  凄まじい顔であった。 「済時さま……」  細い、消え入りそうな声で女は言った。 「済時さま……」  女は、その眸で左右をじろりじろりと睨《にら》み、やがてその視線を正面の茅の人形の上に止めた。  女は、立ち止まり、その唇に喜悦の笑みを浮かべた。 「やれ嬉しや……」  白い歯を見せて、にいっと唇の両端を左右に吊りあげた。  唇の表面がぷつぷつと切れて、幾つもの血の玉がその傷口にふくらんだ。 「そこにござりましたか、済時さま……」  優しい声で言うと、すうっと前に出てきた。  その右手には、金槌《かなづち》と、長さ五寸の釘が一緒に握られている。  左手には、何か、丸い重そうなものを紐のようなもので括《くく》ってぶら下げていた。 「あら、恋しや憎らしや、久かたぶりに見るその姿──」  言うそばから、心の高ぶりを示すようにざわざわと女の髪の毛が立ちあがり、その髪が炎に触れてちりちりと焦げ、小さな青い炎をあげる。  髪の焦げる臭いが、空気の中に満ちた。  それに混じって微かに届いてくるのは、薫衣香《くのえこう》の匂いである。  女は、そこで身を揺すり、 「こうしてまたお姿を見れば、おなつかしや、切なや、苦しやのう……」  舞うように身悶えした。  言っているその唇から、ひゅうひゅう、と青い炎を踊らせた。  ※[#歌記号、unicode303d]沈みしは水の青き鬼   我は貴船の川瀬の蛍火《ほたるび》   頭に戴く鉄輪《かなわ》の足の   焔《ほのお》の赤き鬼となって   臥《が》したる男の枕に寄り添い   如何に殿御よ珍しや  歯をかちかちと噛み鳴らしながら、踊るように手足を宙に遊ばせた。  女は茅でできた済時を、恨むような眼で見やった。  その瞳の中に、小さく緑色の炎が燃えている。 「何故、わたくしをお捨てになられたのですか。あの方のもとに通いながら、そしらぬ顔でわたくしのところにお通いになられていたのなら、このようなことに……」  そこまで言いかけて、女はいやいやをするように首を振り、 「ああ、わかりませぬ、わかりませぬ。あの時どうであったらということなどわかりませぬ。わかっているのは今はこのようになるしかなかったということだけでござります」  女は、涙を流していた。  涙が、顔に塗られた丹を流して、血の涙のように見えた。 「あなたに、ふたつ心のあるのも知らず、契りをかわしてしまったこの悔しさも、みんな、この自らの心が生み出したもの。ああ、あなたが心変わりをされたからといって、わたしの気持ちも同様にさめてしまうものではないのでござります……」  ※[#歌記号、unicode303d]捨てられて   捨てられて 「つい思うてしまう。思えば苦しい。思えば切ない──」  踊り出した。  ※[#歌記号、unicode303d]思ふ思ひの涙に沈み   思ひに沈む恨みの数 「積もって執心の鬼となるも理《ことわり》や──」  女は、そう言って前に足を踏み出し、茅の済時の前に立ち、 「ほうれ、済時さま──」  左手にぶら下げたものを、済時にもよく見えるように、高く掲げた。 「綾子殿の首でござります」  ※[#歌記号、unicode303d]笞《しもと》を振り上げ後妻《うはなり》の   髪を手に絡《から》まいて  綾子の長い髪を左手に絡め、女はその首を済時の前にぶら下げた。 「ほうれ。もう、あなたのお慕いあそばされた綾子殿は、もう、この世にはおりませぬ。ああ、よい気味、ああ、よい気味──」  女は、綾子の首に自分の顔を寄せ、頬に頬をあて、頬ずりをした。  赤い舌を出して、頬の血をぞろりと舐め、まだ開いている目だまにも舌を這わせた。 「綾子殿はもうおりませぬ。どうぞどうぞ、済時さま、いま一度、わたくしのもとにもどってきて下さりませ」  綾子の首を、投げ捨てた。  重い音をたてて綾子の首が床に落ちて転がった。  女は茅でできた済時に擦り寄って、しがみついた。 「もう、この唇は、わたくしの唇を吸うては下さりませぬのか」  女は、人形《ひとがた》の、ちょうど口にあたるあたりに自分の唇をあて、吸い、そして、白い歯でそこを噛んだ。  離れ、床に腰を落とし、赤い衣《きぬ》の前を大きく開いて白い脚を広げ、 「おう、もうここも可愛がってはもらえませぬのか」  腰をくねらせた。  前に両手を突き、四つん這いになって犬のように前に進み、人形の股間のあたりに貌《かお》を埋めて、そこの茅をさりさりと噛んだ。  顔をあげ、そこへ手をあて、 「もう、ここをわたくしのために大きくはして下さりませぬのか」  訴えるような声で言った。 「何故、お黙りになっているのですか」  声をあげて立ちあがった。  左手に釘を持ち、右手に槌《つち》を握り、 「おのれ、済時──」  顔を大きく左右に振った。  女の長い髪が、交互に自分の顔に巻きつき、ざん、ざんと音をたてた。  ※[#歌記号、unicode303d]いでいで生命をとらん  女は巨大な蜘蛛のように人形に跳びついた。 「さて懲《こ》りや思い知れい」  左手に握った釘の先を人形の額にあてると、右手を大きく振り上げて、釘の尻目がけて打ち下ろした。  槌が、釘をおもいきり叩いた。  ずぶり、  と釘が人形の額に深く潜り込んだ。 「思い知れい……」 「思い知れい……」  叫びながら、女は、右手に握った槌で、狂ったように釘を何度も何度も叩いた。  髪が揺れ、炎に触れて、  ぽっ、  ぽっ、  と何度も青い炎があがる。  ずぶずぶと、釘は人形の額に潜り込んでゆく。  たまらない光景であった。  その時── 「た、助けてくれ!」  悲鳴のような声があがった。  済時の声であった。 「ゆ、許してくれい。生命をとらんでくれ」  茅の後ろから、四つん這いになって、済時が這い出てきた。  あまりの恐怖に、済時が耐えられなくなってしまったのである。  腰が抜けているらしく、済時はほとんど手と肘《ひじ》だけで前へ動いている。 「はて、いぶかしや。済時さまがこれにふたり……」  這い出てきた済時を、じろりと女が睨んだ。  その眼が、また、人形の方に動き、 「なんと、最初に済時さまと思うたは、これは茅の人形ではないか」  眉を吊りあげた。 「ひいっ」  済時が悲鳴をあげた。 「おのれ、済時、たばかったなあ」  歯を剥いた。 「いかん、博雅、ゆくぞ」  晴明が、低く叫んで腰をあげた。 「む、むう!?」  博雅は、琵琶を抱え、晴明の後に続いて屏風の陰から出た。  その時には、もう、済時は鬼に追いつかれていた。  這って逃げようとする済時の襟首《えりくび》を女が左手で掴《つか》んでぐいと引いた。  済時の着ていたものがばりばりと引き裂かれ、済時の左肩から胸にかけての肌が露《あら》わになった。  凄まじい力であった。  しかし、襟が破れて、それが済時を救うこととなった。  女の手を逃れ、済時が床を這ってゆく。  それに、女が襲いかかる。 「徳子殿、待たれい」  晴明が声をかけたが、徳子は済時を追うのをやめない。  晴明の存在も、博雅の存在も、徳子には眼に入らないようであった。  晴明は、懐から、何やら書きつけてある霊符を取り出し、それを徳子に向かって掲げたが、躊躇《ちゆうちよ》したようにその手を下げた。 「これは使えぬ……」  晴明は博雅を見やり、 「博雅、琵琶を弾け!!」  叫んだ。 「お、おう」  博雅は、琵琶を抱えなおし、懐から撥《ばち》を取り出して、絃《いと》を弾《はじ》いた。  絃が鳴った。  その音が、鋭く闇を裂いた。  嫋嫋《じようじよう》と琵琶が鳴り出した。 「流泉」──  式部卿宮《しきぶきようのみや》から蝉丸に伝えられ、蝉丸から博雅に伝えられた曲であった。  徳子は、済時を捕らえ、その襟を左手で掴み、右手に握った金の槌を頭上に差しあげ、それで済時の額をおもいきり叩き割ろうとしていた。  その時に、博雅の琵琶が響いたのである。  徳子の動きが止まった。 「この音は、飛天!?」  槌を振りあげたまま、徳子は頭をめぐらせて、琵琶の音の聴こえてくる方を見やった。  博雅の上で止まった徳子の眼の中に、ふっ、と一瞬正気の色がもどった。 「博雅さま……」  徳子が、博雅が知っているあの声でつぶやいた。 「徳子姫……」  博雅が、その名をつぶやいた。  琵琶を弾く博雅の手が止まっていた。  済時を捕らえていた徳子の手がゆるんだ。 「わあっ」  声をあげて、徳子の手から逃《のが》れた済時が床の上に倒れ込んだ。  しかし、徳子は済時を見ようともしない。  博雅と見つめあっている。  乾いた大地の表面に、地中にある水がゆっくりとしみ出てくるように、徳子の顔に現れてきた表情があった。  それは、恐怖の色であった。 「博雅さま……」  苦しみに、身をよじるようにして徳子はつぶやいた。  悲痛な声であった。 「徳子殿……」 「今の……」  やっと、徳子は言った。 「今のあれをごらんになったのですね」 「───」 「今のわたくしをごらんになったのですね……」  博雅は、答える言葉を持っていなかった。 「ああ、なんとあさましい姿……」  丹を塗った貌。  頭に冠った鉄輪。  点《とぼ》した蝋燭。 「おう……」  声をあげた。  徳子は、槌を取り落とし、 「ああ、なんという姿を──」  高い悲鳴のような声をあげて、身をよじった。 「ああ、なんという姿を──」  頭の鉄輪を右手で脱ぎ捨て、床に落とした。  鉄輪に差した三本のうちの二本の蝋燭の炎が消え、一本だけが灯りを点している。 「何故ごらんになったのですか、博雅さま……」  首を左右に振った。  長い髪が、ざんざんと交互に首にからみついてはほどけ、ほどけてはからみつく。 「おう……」 「おう……」  慟哭《どうこく》した。 「恥ずかしや」 「恥ずかしや」  狂おしく両足で床を踏み、歯で唇を噛み破り、呻《うめ》いた。  両手で顔をおおった。 「見られた、この姿を見られた」  首を振りながら、両手をのけると、徳子の両の眼尻が裂けていた。  口の両端がばりばりと耳まで裂けて白い歯が覗《のぞ》いた。鼻がひしゃげ、ぬうっ、ぬうっと左右の犬歯が伸びる。  裂けた眼尻からは血が流れ、内側から押し出されてきたように、眼の玉が膨らんだ。  額に近い髪の中から、めりめりと音をたてて生えてきたものがあった。  二本の角。  まだ、成長しきらない、柔らかな皮に包まれた角だ。袋角《ふくろづの》である。  それが大きく育ってゆく。  額の肉が破れ、袋角の根元から血がこぼれて頬へ伝った。 「生成《なまな》りだ、博雅!」  晴明が叫ぶ。  嫉妬に狂った女が鬼に変じたのが般若《はんにや》である。生成というのは、まだ女が般若になりきる手前の状態にある存在を指す言葉である。  人であって人でないもの。  鬼であって鬼でないもの。  その生成に、徳子は変じていたのである。 「ひいいっ」  叫び、生成となった徳子はざあっと音を立てて外へ走り出ていった。 「徳子殿!」  博雅の声は、もう届かない。  博雅は、琵琶を持って夜の庭に駆け下りたが、もう徳子の姿はどこにもない。 「博雅──」  晴明が博雅の傍らにやってきて声をかけた。  しかし、博雅は、晴明に答えることもできず、呆然としてそこに立ち尽くしていた。 「ああ、なんということを、なんということを、おれはしてしまったのだ──」  その眼は、徳子の消えた闇の向こうを見つめている。 「どうなされました?」  そこへ姿を現したのは、屋敷の外にいた実忠であった。 「何やら悲鳴のごときものが聴こえましたのでやってきましたが、御無事でございますか」 「おう、よいところへきた」  晴明が声をかけた。 「あちらに済時様がおられる。御無事だが、気が動顛《どうてん》しておられる。お傍にいてやってくれぬか」 「晴明様は──」 「鬼を追わねばならぬ」  晴明の言葉を聴いて、博雅は我にかえったようであった。 「徳子姫を?」  博雅が訊いた。 「そうだ」  晴明がうなずいた。  博雅に背を向けながら、 「ゆくぞ、博雅」  晴明はもう、歩き出している。 「お、おう」  博雅は、琵琶を持ったまま、晴明の後を追った。     三  夜更けの都大路を、月に照らされながら牛車《ぎつしや》が進んでゆく。  奇怪な牛車であった。  牛車であるのだが、曳いているのは牛ではなく、巨大な蝦蟇《がま》であった。蝦蟇の背に軛《くびき》が繋がれ、牛車は、夜の都大路をのそりのそりと下ってゆくのである。  牛車の中で、博雅は、心がそこにない様子で、簾《すだれ》を持ちあげて外に眼をやっては、また牛車の中に眼をもどしたりしている。 「晴明よ、牛の代わりのあの蝦蟇で、本当に徳子殿の後を追うことができるのか」 「できるさ。用意しておいた広沢の遍照寺《へんしようじ》の池の水を、徳子姫の背に掛けておいたからな」 「なんだって?」 「牛車を曳いている跳蟲《とびむし》は、遍照寺の寛朝僧正殿のところからいただいてきたものだ。棲んでいた池の水のことを忘れるわけはない」 「どういうことだ?」 「徳子姫がお逃げになったあとには、空中に池の水の水気《すいき》が残っている。その水気の跡を、跳蟲は追っているのさ」 「なるほど、そういうことか」  博雅はうなずいた。  それきり、博雅は口を閉じ、琵琶を抱えて押し黙った。  沈黙の中を、ごとりごとりと音をたてながら、牛車が大路を下ってゆく。 「晴明よ──」  博雅が晴明に声をかけてきた。 「どうした、博雅」  晴明は、思いつめたような眼で自分を見ている博雅に問うた。 「おまえ、しばらく前に、誰の心の中にも鬼が棲んでいると言っていたな」 「うむ」 「よいか、晴明。もしもだぞ、ある日、もしもこのおれが鬼になってしまったらどうする──」 「安心しろ、博雅。おまえは鬼になぞならぬ──」 「しかし、誰の心にも鬼が棲んでいるのなら、おれの心の中にも鬼が棲んでいるのだと言ったではないか」 「言った」 「それはつまり、おれが、鬼になることもあるということではないのか?」 「───」 「もしも、このおれが鬼になってしまったらどうなのだ」  博雅は、また同じことを尋ねた。 「博雅よ。もしも、おまえが鬼になってゆくとするのなら、おれはそれを止めることはできぬだろう」 「───」 「もしも、それを止めることができる者がいるとするなら、それは、おまえ自身だ」 「おれが……」 「そうだ。もしも、おまえが鬼になろうというのなら、それは誰も止めることができぬのだよ」 「───」 「おれは、鬼になってゆくおまえを救うことはできぬ」 「徳子殿も?」 「ああ」  晴明はうなずいた。 「しかし、博雅よ。これだけは言える」 「何だ」 「もしも、おまえが鬼になってしまったとしても、この晴明は、おまえの味方だということだ」 「味方か」 「ああ、味方だ」  晴明は言った。  博雅は、琵琶を抱えたまま、また沈黙した。  ごとり、  ごとり、  と牛車の音が響く。  博雅の眼から、涙がひと筋こぼれている。 「ばか……」  囁くような声で、博雅は言った。 「突然にそんなことを言うものではない」 「おまえが言わせたのだ、博雅」 「おれが?」  そうだというようにうなずいてから、晴明は博雅を見やった。 「蘆屋道満殿に、今日、会うたな」 「ああ」 「道満殿が言うた通りさ」 「何のことだ」 「おれもまた、道満殿と同じということさ」 「まさか」 「いいや、そうなのだ」 「───」 「もしも、おれが道満殿と違うとするなら、それは、おれにはおまえがいるということなのだ、博雅よ……」  晴明は言った。 「晴明よ」  博雅は、晴明を見やった。 「おれにはわかっているよ」 「何がだ」 「おまえは、おまえ自身が考えているよりも、ずっと優しい男だということだ」  言われて、今度は晴明が沈黙した。 「ふふん……」  博雅の言った言葉を、肯定するでもなく否定するでもなく、晴明は小さく首を振ってうなずいた。 「博雅よ」  晴明は、ぽつりとつぶやいた。 「何だ」 「一度離れた人の心は、もう、何があろうともどっては来ぬ」 「ああ──」  博雅はうなずいた。 「どんなに焦がれようが、切なかろうが、もどっては来ぬのだ。それが人の世の理《ことわり》よ」 「───」 「そのことは、徳子殿もよくわかっていよう」 「───」 「何日も何十日も、毎日毎夜、そのことばかりを考え続け、徳子殿もその理をもって自らを納得させようとしたことであろう。御本人だって、鬼になぞなりたくなかったであろう──」 「うむ」 「しかし、納得できぬからこその鬼ぞ。なりたくなかったとしてもなってしまうからこその鬼ぞ──」 「───」 「人の心から本当に鬼を消してしまうには、その人そのものを消すしかない。しかし、人を消すことなぞできるものではないのだ」  晴明は、自分に言い聞かせるように言った。  その時──  ぎいっ、  と大きな軋み音をあげて、牛車が停まっていた。     四  晴明と博雅が牛車を降りると、そこは、五条辺りの、荒れた屋敷の前であった。 「晴明、ここは──」  博雅が訊いた。 「道満殿が言っていた、徳子姫の住んでおられたお屋敷ではないか」 「では、姫は──」 「道満殿は、どこにおられるかわからぬと言っておられたが、結局、姫は御自分のお育ちになったこの屋敷にもどってこられたということだな」  見れば、蝦蟇の曳いてきた牛車は、崩れた築地塀《ついじべい》の傍《かたわ》らに停まっている。牛車を曳いてきた蝦蟇──跳蟲の横に、小袿《こうちぎ》を着た蜜虫が立ち、晴明に向かって頭を下げていた。 「ゆくぞ、博雅──」  築地塀の崩れたところから、晴明が中に入っていった。  博雅が、琵琶を抱えて後に続いた。  月光の中に荒れ果てた庭があった。  鬱蒼《うつそう》と秋の草が繁り、足を踏み入れてゆく隙間もない。  振り返れば、くぐってきたばかりの築地塀の崩れたあたりに、萩が咲いている。  晴明の庭と似ているところもあるが、違いは、この庭が本当に荒れ果てていることであろう。  どこぞの牛飼《うしかい》の童《わらわ》が、草を与えるため、昼にここで牛を放し飼いにしているのであろう。あちらこちらに、牛糞が落ちている。  秋の草に夜露がみっしりと宿り、葉先が重く垂れている。  夜露のひとつずつに青い月光が捕らえられ、無数の小さな月がこの庭に降りてきて葉陰で休んでいるようにも見える。  眼を向こうにやれば、傾いた家の屋根が見える。  ゆっくりと、草を分けて晴明は歩き出した。  晴明の狩衣《かりぎぬ》の裾が、露を含んでたちまち重くなる。  晴明の後から博雅が進んでゆくと、屋敷の前に出た。  雨風が吹き込んだためか、濡れ縁の柱の一本が腐りかけて、軒が大きく傾いていた。  その軒に向かって、地面から蓬《よもぎ》が腐った柱を這い昇っている。  とても、人が住むような屋敷とは思えない。 「ここが……」  博雅がつぶやいた。 「ここが、徳子殿がお育ちになったお屋敷か──」  見やれば、軒の下あたりに、花を落として葉だけとなった芍薬《しやくやく》が残っていた。  あちらに見えている樹影は、桜であろうか。  博雅のすぐ先に、ひときわこんもりと秋草が繁っている所がある。  近づいてみれば、それは、朽ちた牛車であった。  半蔀車《はじとみぐるま》である。 「これは──」  かつて、博雅が見たことのある女車《おんなぐるま》であった。  それが、雨風に長年月さらされて朽ち、青い月光の中で、今はすっかり秋の草に覆われているのである。 「徳子殿が、お乗りになられていたものだ……」  博雅がつぶやいた。  車を覆った草の中で、ほろほろと秋の虫が鳴いている。  黒々と老いた獣のようにうずくまった家の中でも、虫は鳴いているらしかった。  この屋敷も、かつては、構えの立派な館であったことは偲《しの》ばれるが、今はその影もない。濡れ縁から家の中までも、秋の草は忍び入っている。 「このお屋敷で、徳子殿は……」  つぶやいた博雅に、 「ゆこう」  晴明はそう言って、濡れ縁に片足をかけようとした。  と──  濡れ縁に人の気配があって、そこに立つ者があった。 「博雅様、晴明様──」  その人影は言った。  老人であった。  博雅の耳に覚えのある声だ。 「そなたは……」 「お久しゅうござります──」  十二年前に初めて耳にした、徳子姫の乗った牛車についていた舎人《とねり》であった。  舎人もまた、十二年その身体にも声にも歳を重ねている。 「徳子殿は?」 「遅うござりました、博雅様」  ぞっとするほど静かな声で舎人は言った。 「遅かった?」 「はい」 「何が遅かったというのだ」  おさえてはいるが、博雅の声は、悲鳴のように高くなりかけている。 「博雅、ゆくぞ」  晴明が濡れ縁の上にあがった。  琵琶を抱えた博雅がその後に続く。  晴明と博雅は、舎人の横を擦《す》り抜けて、奧へと足を踏み入れた。  腐った床を踏んでゆくと、月光の中に出た。  朽ちた屋根が落ち、そこから、月光が家の中まで差し込んでいるのである。  あちらこちらに草の生えた床の上に、月が青い影を落としている。  その月光の中に、倒れ伏している者があった。  赤い衣を着た女であった。  むっとするような血の匂いが夜気にたちこめていた。  見れば、伏せた胸の下から、夜目にも赤い血が生き物のように這い出て、床にその輪を広げているところであった。  倒れた女は、右手に血に濡れた懐剣を握っていた。 「遅かったか。自ら生命を──」  晴明が言った。 「徳子殿……」  博雅は、女の横に両膝を突き、琵琶を床に置いて、その身体を抱えようとした。  すると──  ふいに徳子は自ら仰向けになり、下から博雅にしがみついてきた。  鬼の貌《かお》をしていた。  牙が長く伸びた歯をがちがちと鳴らしながら、博雅の喉笛に噛みつこうとした。  しかし、その歯は博雅に届かなかった。  かつん、  と上下の牙が噛み合わさって、音をたてた。  徳子は、きりきりと歯を噛み鳴らしながら、裡《うち》からこみあげてくる何かの力に耐えているようであった。  左右に首を振った。 「博雅さま……」  つぶやいた女の唇が左右に吊りあがり、また、かっと口を開いた。 「かかか……」  女が血にまみれた牙をむいて笑った。 「取りて、喰おうと思うたに……」  くやしそうな声で言った。  言うそばから、女の唇からおどろの緑色の炎が滑り出てくる。  女は口から血を流しながら、ひゅうひゅうと喉を鳴らしていた。  博雅は、徳子を抱き締め、 「喰え」  徳子の耳に囁いた。 「取りておれを喰え。我が肉を啖《くら》え」  徳子の瞳に正気の光がもどり、その光がまた消え、歯をまたがちがちと鳴らした。  徳子の内部で、鬼と人とが明滅している。  その喉から、血がどくどくと溢れ出していた。  徳子が、自ら、懐剣で自分の喉を突いたのである。  徳子が、首をまた左右に振った。 「ああ、できませぬ。博雅様を取りて啖うなどというおそろしいことは──」  言い終えた後から、また、ぬうっと徳子の牙が伸びた。 「すまぬ、すまぬ」  博雅は、徳子を抱き締めながら言った。 「晴明に、そなたの邪魔をさせたのはこの博雅ぞ。この博雅が、晴明に頼み込んでここまで来てもろうたのだ。このわたしがそなたの邪魔をしたのだ。されば、わが肉を啖い、心の臓に歯をたてよ」  博雅の眼から、涙がふきこぼれていた。  徳子の眼の中に、ふっ、と人の光がもどってくる。 「博雅様、泣いていらっしゃるのですか──」  鬼の徳子は、細い絶えだえの声で言った。 「何故、お泣きになるのですか、博雅様──」 「ああ、姫よ。何故涙がこぼれるのかわたしにもわからないのだよ。何故泣いているのか、わたしにもわからないのだよ」  博雅の眼から、涙が溢れ、頬を伝った。 「そなたが、愛《いと》しいのだよ」  博雅は徳子を見つめ、 「そなたのことを想うと苦しいのだよ」  痛みに顔を歪《ゆが》めるようにして告白した。 「こんなに、わたくしは歳をとりました……」 「歳をとられたそなたが愛しいのだよ」 「皺が増えました」 「増えたそなたの皺が愛しいのだよ」 「腕にも、腹にも、顎の下にも肉が付きました」 「付いたそなたの肉が愛しいのだよ」 「このような姿になってしまっても?」 「はい」 「このような貌になってしまっても?」 「はい」 「このような鬼になってしまっても?」 「はい」  博雅はうなずき、 「わたしは、鬼であるそなたが愛しいのだよ」  はっきりとそう言った。 「ああ──」  徳子が声をあげた。 「そのお言葉を、十二年前に聴きたかった……」 「徳子殿──」 「どうして、どうして十二年前のあの時、わたくしにその言葉を言って下さらなかったのですか──」 「あの頃、わたしはまだ、刻《とき》が永遠に続くものと思っていたのです」 「───」 「そなたのために笛を吹き、そなたがそれを聴いている──それがいつまでも続くものと思っていたのです」 「どのような刻も、永遠に続くものではありません」  そういう徳子の唇の端から、血が顎に伝っている。 「人の生命も……」 「生命も?」 「わたくしの弟も、十二年前のあの頃、流行《はや》りの病で生命を落としました……」 「なんと──」 「大学に入っていたのですが、父も母も死んでからは蓄えも失くなり、いつ大学をやめるかというすさんだ日々に、病に倒れたのです」 「はい」 「弟は、大学をやめて相撲人《すまいびと》になるのだとわたくしに言っておりました」 「相撲人に?」 「十二年前、大学の学生と相撲節会でやってきた相撲人たちと喧嘩になったことがございましたが、その時、弟は相撲人にならぬかと言われたというのです」 「どなたにですか」 「真髪成村様でございます」 「おう」 「弟は、それを楽しみにしていたのですが、成村様が会おうと言ったその日に病を患って、十日ほど寝込み、帰らぬ人となったのでございます」  人より並はずれた力を持ちながら、それをどうしていいかわからずもてあましていた日々──  大学にいることもできなくなり、心が荒れていた時に、はじめて、成村に声をかけられたのだという。 「それで、あのおり、成村殿を勝たせたいと──」  こくん、  と顎を引いてうなずいた徳子の眼が、鬼の眼になっていた。 「そうさあ。あの済時めは、それまで成村様を贔屓《ひいき》にしていながら、急に海恒世に心を移しおったのさあ……」 「徳子殿──」 「憎らしや、済時──」 「済時殿を、心から慕われていらしたのですね」 「おう、おおう……」  徳子は涙をこぼしながら声をあげた。  その眼に人の心がもどってくる。 「弟が死んでから、なにかと心遣いをしていただいているうちに、済時さまをお慕いするようになりました。それが……」  徳子は、博雅の腕の中で、いやいやをするように首を左右に振った。  徳子を抱えている博雅の袖が血で温かく濡れてゆく。その温度が、博雅の肌にも届いている。  徳子の身体から、温度がどんどん逃げ出してゆく。それを止めようとするように、博雅が腕に力を込める。  博雅の腕の中で、徳子がもがいている。  身体をよじって、博雅の腕から逃れようとする。  髪を振り乱し、首を振って顔をあげた。  鬼となった。 「おのれ、済時、他の女子《おなご》に心を移したなあ──」  かあっ、と口を開いて、徳子は博雅の左腕に噛みついた。  博雅が、歯の間で呻き声を噛み殺した。 「博雅!」  晴明が、霊符を持った右手を上げる。 「よいのだ、晴明。何もするな」  博雅は言った。  徳子は哭《な》きながら博雅の肉を噛んでいる。  血の涙が流れている。  博雅も、涙を流していた。  博雅の頬を伝った涙が、徳子の鬼の貌の上に落ちて、血の涙と混ざり合った。 「よくも、よくも……」  肉を噛みながら、徳子が唸っている。 「あのような、あさましき我が姿をごらんになられましたなあ」  哭きながら噛んでいる。  何度も何度も噛んでいる。 「恨めしや、博雅様……」 「憎らしや、済時殿……」  鬼が嗚咽《おえつ》の声をあげた。 「徳子殿……」 「徳子殿……」  博雅は、その名をつぶやきながら、それしかないというように徳子を抱く手に力を込める。  もはや、どのような方法もない。  鬼と化した徳子を止める術がない。 「徳子殿……」  博雅は、悲痛な、しかしこれ以上はないほど優しい声でその名を囁いた。  徳子の瞳の中に、また、人の心が点《とも》った。 「ああ……」  徳子は声をあげた。 「博雅様に、なんということを──」  自分が、それまで、博雅の肉を噛んでいたことに気がついたらしい。 「よいのだよ、徳子殿。噛んでもよいのだよ。わたしの肉を啖うてもよいのだよ」  博雅は、声を震わせて言った。 「徳子殿。あるのだよ。泣こうが、苦しもうが、どんなに切なかろうが、どんなに焦がれようが、どれほど想いをかけようが、戻らぬ人の心はあるのだよ……」 「わかっております。みんなわかっております。けれど、ああ、わかっていても人は鬼になるのでございます。憎しみや哀しみを癒すどのような法もこの人の世にない時、もはや、人は鬼になるしか術がないのです。なりとうて鬼になるのではないのです。それしか術のない時、人は鬼になるのでございます」 「嗚呼《ああ》……」 「毎日毎夜、何日も何十日も、幾月も、無常の世の理《ことわり》をもって済時さまをあきらめようとしてきたのですが、できるものではございませんでした……」 「───」 「都大路を当てもなく彷徨《さまよ》うているおりに、ふと耳にいたしましたのが、済時さまにさしあげたはずの琵琶の音……」 「飛天だね」 「はい。わたしが大事にしてまいりました父母のかたみ。蓄えが底をつこうとも、この琵琶だけは売るまじと手元においていたもの」 「それを、綾子姫が持っていたのですね」 「生《い》き霊《すだま》となって、博雅様とお会いしたあの日の昼のことでござりました」 「助けて欲しいとそなたは言っておられたのに、わたしは何も……」 「わかっております。何もかも、承知しております。憑《つ》きものならば落とせましょう。病であれば、治すこともできましょう。しかし、これは憑きものではないのです。これは、わたくしの自らが心の……」 「ああ、徳子殿。こうなった今でさえ、わたしは、そなたに、何もしてやれぬ。どうしてやることもできぬのだ。ああ、なんという、なんという力のない愚かな男なのだ、この博雅は──」 「いいえ、いいえ」  徳子は首を左右に振った。 「愚かなのはこのわたくしです。かような姿になり果てても、まだ消えませぬ。まだ、恨みが消えぬのです──」  そう言う徳子の口から、めろめろと青い炎が言葉と共に吐き出されてくる。 「このようなあさましき姿を博雅様に見られてもなお、恨みが消えないのでございます」 「徳子殿──」 「この上は、死して、真《まこと》の鬼神となって済時殿に祟りをなさんと思い、自らが喉を突きました。そこへおいでなされたのが博雅様……」  すでに、徳子の息は絶えだえになり、声もかすれている。  耳を寄せねばその声も聴きとりにくくなっている。  牙や、歯が伸びて、唇がうまく合わさらず、しゃべる声も歯の間から吐く息が抜けて、言葉が、やっと判別できるくらいになっている。  晴明は、博雅と徳子を見つめたまま動かない。  ただ、黙って、ふたりのやりとりを聴いている。  博雅が耳を徳子の口に寄せると、 「博雅様……」  徳子が、赤い舌を歯の間に踊らせて言った。 「そのようにお顔をお近づけになると、また、その喉に……」  ひゅう、と青い炎を吐き出して、徳子は歯を噛み鳴らした。  しかし、その噛み鳴らす歯の音も、今は小さく微かになっている。 「び、琵琶を……」  徳子が言った。 「博雅様、飛天をいまいちど我が手に……」 「おう、よいとも、よいとも──」  博雅は、片手を伸ばし、床に置いてあった琵琶を取りあげて徳子の胸の上に乗せた。  徳子は、両手を伸ばしてそれを抱えた。  右手の指先で、絃《げん》をつまみ、弾いた。  おろおん……  琵琶が鳴った。  ただ一度鳴ったその音に、徳子は眼を閉じて耳を傾けた。  ひと呼吸──  ふた呼吸──  さらに数呼吸、琵琶の音は夜気を揺らし、韻韻《いんいん》と響いて、その余韻がゆっくり大気の中に溶けてゆく。  小さくなりながら、無限の彼方に去ってゆくその音を、徳子は耳で追っているようであった。  徳子は、眼を開いた。 「博雅様……」  細い、琵琶の音の後を追って消えてゆきそうな声で、徳子は言った。 「はい」 「ほんに、あれはよい笛でござりましたなあ……」  ほとんど聴きとれぬ声で徳子は言った。 「徳子殿……」  博雅の声も小さくなっている。 「お願いがございます」 「なんだね」 「いま一度、笛を──」 「笛を?」 「この徳子のために笛を吹いては下さりませぬか」 「おう、もちろん──」  博雅は、徳子の顔を、そっと床に下ろし、懐に手を入れて葉双《はふたつ》を取り出した。  指をそえ、唇にあて、博雅は笛を吹きはじめた。  澄んだ音色が、葉双から滑り出てきた。  朽ちた屋根から差してくる月の光にその音が溶け、笛の音が青く光っている。  うっとりと、徳子は眼を閉じた。  博雅は葉双を吹いた。  吹いている間は、徳子は生きている、生きて笛の音を聴いている──  それにすがるように、博雅は笛を吹き続けた。  そして──  笛を吹くのをやめ、 「徳子殿……」  博雅は声をかけた。  返事はなかった。 「徳子殿……」  博雅はもう一度声をかけた。  返事はなかった。  怖いものが背を疾《はし》り抜けたように博雅は声を大きくした。 「徳子殿……?」  返事はなかった。 「徳子姫!?」  博雅は、高い、悲鳴のような声をあげた。  徳子は、琵琶を抱え、仰向けになったまま、眠るようにそこで息絶えていたのである。  そして、博雅は気づいた。 「おう……」  徳子姫の顔が、鬼の顔から、博雅の知っている、あの人である徳子姫の顔にもどっていたのである。 「なんと──」  徳子姫の額に、もう角は生えておらず、唇からも、もう牙は覗いていなかった。 「博雅よ……」  晴明が、優しく声をかけた。 「もしかしたらおまえが、このお方を救うたのかもしれぬ……」 「救った? このおれが……?」 「ああ……」  晴明が、博雅をいたわるようにうなずいた。  その時──  おおん……  おおん……  獣のような哭く声が外から響いてきた。  晴明と博雅が眼をやると、庭から、ひとりの白髪の老人が姿を現し、家の中へと入ってきた。  蘆屋道満であった。 「道満殿……」  晴明が言った。  しかし、道満は答えなかった。  口を結んだまま、晴明と博雅の横に立った。  その顔を見れば道満は哭いてはいなかった。  今、哭き声と聴こえたのは、それは空耳であったか、あるいは蘆屋道満の心の声が耳に届いたのか。  道満は、徳子を見下ろし、 「哀れな……」  ぽつりとつぶやいた。  さらに、人の気配があった。  濡れ縁の上に、あの、老いた舎人が月光を浴びながら立っていた。  その舎人は、言葉もなく、呆然としてそこに立っていた。  晴明は、舎人を見つめ、 「もし……」  声をかけた。 「はい」  舎人がうなずいた。 「ひとつ、お願いがあるのですが──」 「何でしょう」 「このお屋敷には、何やらの気が満ちております」 「気、でござりますか」 「禍禍《まがまが》しき気ですが、今はごく微《かす》かなもののようです」 「は、はい……」 「外へ出まして、この屋敷の東西南北四隅の角にある柱の根元あたりを掘って、そこから何か出てくるものがあれば、ここまで持ってきていただけますか」  晴明が言うと、舎人は、唇を微かに震わせ、何か言おうとした。  それを遮るように、 「お願いいたします」  晴明は言った。  開きかけた唇を閉じ、 「はい──」  舎人はうなずいた。  頭を下げ、庭へ下りて、舎人は姿を消した。  しばらくして、舎人がもどってきた。 「何かありましたか?」  晴明が声をかけると、舎人は、懐から、二枚の貝がしっかりと合わさった大きな蛤《はまぐり》を三つ取り出して、 「こんなものが出てまいりました」  それを晴明に渡した。 「東、西、南の柱の根元に、それぞれひとつずつ、それが埋められておりました」 「北の柱からは?」 「何も出てはまいりませんでした」 「わかりました」  晴明は、うなずいて、三つの蛤を左手の上に乗せ、口の中で小さく何やらの呪《しゆ》を唱えた。  唱え終わると、右手の人差し指を唇にあて、その指先で、順番に三つの貝に触れていった。  と──  晴明が指先で触れていった順に、ぱかり、ぱかりと、貝が開いていった。  それを見ていた博雅が、 「おう……」  声をあげた。  なんと、開いた三つの蛤の内側は、丹《に》で真っ赤に塗られており、その中から、それぞれ、蝉の脱け殻、脱皮した蛇の皮の一部、蜉蝣《かげろう》の死骸が出てきたのであった。 「晴明、これは──」  博雅は不思議そうな顔で言った。 「しかし、北の柱から何も出て来ぬとは?」  晴明は、何か考えるように首を傾《かし》げ、 「邪気が薄れていたということは、すでに、先にどなたかが北の柱の下から貝をひとつ掘り出していたということか──」  何やら納得したようにうなずいて、 「ははあ──」  晴明は、道満を見やった。 「道満様、あなたですね」 「そうだ」  道満は、うなずいた。  道満は、晴明よりも先に、この屋敷を訪れている。それならば、この屋敷を訪れた時に、道満がこれに気づかぬわけはない。  そう考えて、晴明は道満に言ったのである。  道満は、懐に手を入れ、ひとつ貝を取り出した。 「吩《ふん》」  小さく声をかけ、道満が指先で触れると、貝が口を開いた。  中から出てきたのは、黒く焼け焦げた柿の種であった。 「初めてこの屋敷に来た時、妙な気を感じたのでな。もしやと思って、北の柱の下を掘ったらこれが出てきた。ま、ひとつだけ掘り出せば、呪《まじ》の験力《げんりき》はほとんどなくなるのでな、残る三つはそのままにしておいたのよ──」 「徳子姫には?」 「今さら言うても詮《せん》ないことであろうと、言わずにおいたが、おそらくは、綾子姫のところで殺された陰陽師が、このような智恵をさずけたのであろうよ」  道満が言った。 「晴明、それは何なのだ。どうして、そんなものがここに──」  博雅が訊いた。 「このお屋敷から人がいなくなり、お家がさびれるように掛けられた呪さ」 「なに」  空蝉《うつせみ》。  蛇の脱け殻。  蜉蝣。  焼いた柿の種。 「いずれも、主《しゆ》なく虚《うつろ》のものと、生命はかなきもの、そして実を結ばぬものぞ」  晴明は言った。 「いったい、誰が、このようなことを──」  博雅が言うと、晴明は、その視線を舎人に向けた。  舎人は、血の気の失せた青い唇を震わせていた。 「あなただったのですね」  晴明は言った。 「はい」  震える声で、舎人はうなずいた。 「しかし、綾子姫に頼まれたのではありません。もっと以前に、わたしが陰陽師から話を聞いてほどこしたものでございます」 「陰陽師?」 「はい。綾子様のところで殺された陰陽師でござります」 「何故、このようなことを?」  晴明が問うと、舎人はしばらく沈黙し、そして告白した。 「済時様に、金子《きんす》をいただいて頼まれたのでございます」 「なんと!」  博雅は声をあげた。 「姫の色よい返事をいただけなかった済時さまが、これをお考えになって──」 「───」 「もしも、家が困れば、姫は家のために自分を頼るしかなくなるであろうと……」 「むごいことを──」  晴明はつぶやいた。 「わたしも、このようなことになるとは思ってもおりませんでした。放っておいても、もともとこの家の暮らしは楽ではなかったのでございます。姫様が、済時様と睦《むつま》じうなられれば、姫様もお幸せになり、少しは暮らしむきもよくなるであろうと思うていたのですが、まさかこのような……」  言いながら、舎人は床に落ちていた姫の懐剣を拾いあげ、 「おさらば──」  それで、自らの喉を突いていた。  どう、と前のめりに舎人が倒れた。  博雅が駆け寄って抱き起こした時には、すでに舎人は事切れていた。 「終わったな……」  ぽつりと、道満はつぶやいた。  そのまま、背を向け、道満は庭へ降り、いずこともなく姿を消した。  濃く繁った叢《くさむら》の中で、秋の虫がしきりと鳴いた。 「晴明よ……」  博雅は、低い小さな声で言った。 「本当に、これで終わったのだな」 「うむ」  晴明もまた、低い声でうなずき、 「ああ、終わった……」  ぽつりと言った。  博雅は、長い間そこに無言で立っていた。  やがて── 「鬼も人も、哀しいものなのだな……」  誰にともなく囁くようにつぶやいた。  博雅の言葉が届いているのかどうか。晴明は軒から青い月を見あげていた。     五  藤原済時は、この年に病をわずらい、ふた月ほど寝込んでからこの世を去った。  徳子姫は、琵琶の飛天と共に、広沢の寛朝僧正のいる遍照寺にひそかに葬られた。  晴明と博雅が、これに立ち合った。  葬られたその日は、秋雨が降っていた。  冷たい霧のごとき雨であった。  雨は全山に降りかかり、庭の石も、樹も、落ちた紅葉《もみじ》も、あらゆるものを濡らしている。  本堂に三人は座し、しめやかに話をした。  寛朝僧正は、秋雨の落ちてくる庭を見やり、 「空から落ちてくる水も、池に溜まった水も、水の本然《ほんねん》にかわりがないように、人の本然もかわるものではないのでしょうなあ」  そうつぶやいた。 「たとえ、鬼になろうとも──そういうことですか」  晴明が問うと、 「はい」  静かに寛朝僧正はうなずいた。  博雅は、黙ってふたりの話に耳を傾けていた。  その年より、博雅が夜に独りで笛を吹くと、生成り姿の徳子姫が現れた。  徳子姫は、琵琶を抱え、ひと言も口をきくことなく、笛の音に耳を傾けた。  そこが部屋であれば、隅の暗がりに──  外であれば、もの陰や、樹の下に姿を現した。  徳子姫は、凝《じ》っと笛の音に耳を傾け、時おりは、博雅の笛に合わせて、自ら琵琶を鳴らすこともあった。  ひっそりと姿を現し、ひっそりと姿を消してゆく。  姿を現す時には、生成りの鬼であるが、姿を消す時には、人の貌《かお》にもどっている。  互いに無言のまま、どのような話もしなかったが、博雅は、いつも、徳子姫が姿を消すまで、笛を吹き続けた。  ※[#歌記号、unicode303d]言ふ声ばかりは定かに聞こえて   言ふ声ばかり   聞こえて姿は   目に見えぬ鬼とぞなりにける   目に見えぬ鬼となりにけり [#改ページ]    あとがき 『陰陽師』の長篇版『生成り姫』を、お届けしたい。  一九九九年の初夏から、ほとんど夏いっぱいをかけて、朝日新聞の夕刊に連載したものである。  本書はそれに新しいエピソードを加え、さらに連載原稿に加筆をした。  本来この『陰陽師』のシリーズは、文藝春秋で書いているものなのだが、今回は朝日新聞社からの発行となった。 『陰陽師』の長篇──  これには理由がある。  朝日新聞社から、夕刊紙連載の話があったのは、連載開始まで一カ月ほどしか時間がない時であったのである。  この一カ月で、新しい長篇をたちあげるのは難しい。連載しながら話をたちあげてゆくというやり方は、ぼくもうまいのだが、この手口が使えるのは、連載期間に充分なゆとりがある時である。お尻が決まっている時には、この手口は使えない。  短い準備期間でもやれる長篇のアイデアは幾つもあるのだが、それは、別の場所で書くことがすでに決まっているものばかりであり、他の社で書く予定のアイデアを、別の社に勝手に移せるものではなかった。  困った時の安倍晴明《あべのせいめい》──ではないのだが、その時、ぼくの頭に浮かんだのが、長篇版の『陰陽師』であったのである。 『陰陽師』の長篇は、以前から書こうと考えていた。  すでに、安倍晴明、源博雅《みなもとのひろまさ》というキャラクターはできあがっており、このふたりの物語ならば、いつでも短い時間でたちあげることができる。  さらに書いておけば、ぼくは『陰陽師』の短篇版で、「鉄輪《かなわ》」という話を書いているのだが、これを以前から長篇化してみたいと思っていたのである。  謡曲の「鉄輪」という話をもとにしたものであり、この謡曲の中にも安倍晴明が出てくる。  晴明が、鬼と化した女から、呪われている男を守る話である。  しかし、謡曲では、この鬼となった女について、特に話の後半、充分に描かれていないような気がしたのである。   目に見えぬ鬼にぞ   なりたりける  このような謎の歌詞をもって謡曲は終わっているのである。 「いや、ここに全て描かれているではないか」  そのように言われてしまえばそれまでなのだが、どうもぼくにはもの足りないものが残ってしまうのである。  この、鬼にまでなった女の心に対するおとしまえを、なんとか物語というシステムの中でつけてみたかったのである。  それで、話のベースは「鉄輪」の物語となった。  今回問題になったことは、もうひとつあった。  安倍晴明、源博雅というキャラクターについて、読者にどう説明をするか。  陰陽師というプロフェッショナルの仕事師や安倍晴明については、これまで、文春版の『陰陽師』において、何度か説明をしてきた。  その説明を今回はするかどうか。  結論から言えば、もう一度、この朝日新聞社版『陰陽師』では、 「陰陽師とは何か──」  というそもそもの始めから物語をはじめることにした。 「朝日新聞」の読者の大多数にとって、まず�陰陽師�という言葉自体が耳慣れぬものであろうと考えたからである。  そこで、今回はあらためて、『今昔物語集』などの中から、晴明のエピソードなどを紹介することにした。  前と同じ手口というわけにもいかないから、演出を新しくして、古典などから紹介したエピソードを読んでいるうちに、いつの間にか本篇の話に入っているというやり方にした。  このあたりは、うまくやれたのではないかと思う。  さて──  この『陰陽師』を書いていてよく思うことなのだが、書いている本人が言うのもおかしいのだが、晴明と博雅というこのコンビにはいつも救われることが多い。  このふたりの会話を書くのは、いつも楽しみであり、書いている時はほとんど無限にこのふたりの会話ならば書けそうな気さえしてくるのである。  漫画版──つまり岡野玲子さん描くところの晴明と博雅の影響も、自然に小説版は受けており、この影響は間違いなく、プラスの力学として、この物語に対して働いている。  今回は、特に博雅に助けられた。  この人物の存在がなかったら、晴明も、小説『陰陽師』も、もっと別のものになってしまったことであろう。書きあぐねて、どうしていいかわからなくなってしまった時には、いつも、暗い闇の向こうに、標《しるべ》のように源博雅という灯りがぽつんと点《とも》っているのである。 『生成り姫』を書くというのは、その源博雅という灯りに向かって、ひとマスずつ、ひとマスずつ、原稿用紙のマス目に万年筆で下手な文字を埋めながら近づいてゆく作業であったような気がする。  おそらく、半永久的に、何年かに一冊ずつのペースで、この『陰陽師』の物語は書き続けられてゆくことになるであろうと思う。  二〇〇〇年一月三〇日 京都にて── [#地付き]夢枕 獏  単行本 二〇〇〇年四月 朝日新聞社刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年七月十日刊